聖書が明らかにする「同性婚」の罪

女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌み嫌われる。 申命記22章5節

 

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。 コリント人への手紙第一6章9-11節

 

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。 ローマ人への手紙1章26-32節

 

申命記の個所は、知らなかったです。マッカーサー先生に感謝です。
日本でもそうなりつつありますが、アメリカでは同性婚が法律で認められて、しかもアメリカ合衆国の大統領もそのことをアメリカの勝利だと喜んでいました。
しかし、聖書ではあきらかにその間違い、神の御前に大きな罪であることをはっきりと示しています。

そして裁きを警告しています。

神は、男と、女に人を形造られました。中間は無いのです。

社会がその悪を容認、というよりむしろ歓迎してるようにさえ見えるのですが、その風潮を見るとき明らかなサタンの支配、王国がこの世にはあることがはっきりと見て取ることができます。

マッカーサー先生は、クリスチャンは少数派だと言っていました。いつの時代でも、です。
信仰的なクリスチャンなら、それらに屈しない、ダニエル、ダニエルの友人たち、ダビデ、イエス様、パウロ、信仰的に歩んだ人々はみな罪に屈することは無かったのです。

We Will Not Bow

決して私たちは屈しない。

それがグレイスコミュニティーチャーチの宣言でした。
皆の拍手がそれを証明しています。

信仰に歩むなら、主の喜びと感動を分かち合うことができます。
しかし、この世の流れに屈して、妥協してしまうなら、決してこの喜びに預かることも、分かち合うこともできません。

イザヤ5章20節にこう書かれています。

 

ああ。
悪を善、善を悪と言っている者たち。
彼らはやみを光、光をやみとし、
苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

 

真理から大きく外れています。

deviation
逸脱

真理からの逸脱は、このような流れに対する妥協、この世の流れに負けてしまう所から始まっていくのでしょう。

「これくらいだったらいい」
「あの人だってそうやっている」
「だれも見ていない」
「神は、赦し(恵み)の神だから」
「みんながやっていることだし」

いろんな囁きがやってきます。

それらに対して、いつまでも盲目であり続ける、もしくは、神様から既に与えられているメッセージに対してことさらに背き続けるなら、ローマ1章にあったような状態に陥ってしまうのでしょう。

黙示録の預言の学びから、関連してダニエル書、そしてエゼキエル書を学んでいるのですが、こんなことが書かれていました。

 

人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入り口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』 彼らが群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。 あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。 しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。  エゼキエル書33章30-33節

 

昨年の11月ごろに以前の教会を出て、浜寺聖書教会のメンバーとしてインターネットを活用した礼拝を守っています。
聖書に従って歩む、神に喜ばれる歩みをすることがいかに私の心に平安と喜びを与えて下さるのか知ることができました。

「逸脱」は、教会内で起こる罪です。
教会外ではありません。
まず教会が、教会の間を歩まれる主に心から従って歩まないことには、決して外の人に伝えるべきものを持ち合わせることなど、不可能です。

御言葉に対しての喜び、主の喜びについて知らないなら、それ以外で埋める方法しか知らないことになります。
聖書に書かれている、神様が示している、パウロが伝えている「救い」「福音」はそんなものなのでしょうか?

 

彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。― 神である主の御告げ ― わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』
人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。 わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、彼は自分の行った不正によって死ななければならない。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行い、その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。
彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行った彼は必ず生きる。  エゼキエル書33章11-16節

 

神様は、世にいる全ての人々を愛しておられますが、もちろん私たち教会もそれを命じられています。
しかし、愛するとは一体何でしょうか?

神の真理を伝える事。
間違っていることを、「それは間違っているよ」と伝えてあげることではないでしょうか。

神の裁きが警告されていて、その事が間近に迫っている事を、伝える事、それこそが私たち教会が宣言すべきことだとマッカーサー先生はメッセージしています。