聖書からの逸脱 5 「自己受容 2」

■ 純粋なみことば

ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 Ⅰペテロ2:1-2

あなたは熟練した者、すなわち真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。 Ⅱテモテ2:15

 

 

聖書が示すことは、純粋な神のみことばに立って歩むということです。この純粋さという点は聖書の様々な箇所で言及されています。イエス様は、ご自身について来る者の条件とでもいうべき次の言葉を話されました。

 

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。
人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。 ルカ9:23-25

 

自己受容の説明をする時によく用いられる喩えがあります。「コップの水」です。自分のコップに溢れるばかりに水が満たされたら、その溢れた所から人に分け与えることができる、愛することができる、といったような内容です。それくらい自分を大事に、愛して、満たされて、満たされて溢れるばかりになってその後に、ということです。これは、余った物についての話なのでしょうか?余り物で人に分け与えることができる、と言っているのかもしれません。自分を少しも傷つけることなく、余り物であるならば、人に分け与えても害は受けなくて済みます。そのような内容かもしれません。イエス様が言われていることは全く逆の事のようです。

 

人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。 ヨハネ15:13-14

 

コップの水の溢れるのを待つどころか、コップの中の水を全て注ぎだしてしまいなさい、と言われているようにしか、私には聞こえません。他にももっと明快にこの教え(「コップの水」の喩え)が誤ったものであることが分かる、イエス様のみことばの箇所があります。

 

さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」 ルカ21:1-4

 

ほぼ真逆の内容じゃないですか? そのような真逆の教えが教会にあることに、全く気付けていなかったのです。非常に恐ろしいことです。この状態は、サタンの思惑通りだと言わざるをえません。