偽教に惑わされるな

06/04/23 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師
主 題:偽教に惑わされるな
聖書箇所:コロサイ人への手紙 2章8節-23節

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私たちの信仰生活を神の力によって生きて行くときに、私達は変化していき、喜びに溢れます。パウロは私達に、私たちがすべきことは「神の前にまず救いを求めること」、そして、「救われた者は成長を求めること」であり、「信仰が強くなることを求めること」、そうすれば、結果として、「その人には感謝が溢れ出るようになる」と教えてくれました。

パウロは言いました。みことばにしっかり従って行くこと、真理に従って生きることが大切で、騙されてはいけないと。どんな間違った教えにも騙されてはならないと言います。間違った教えを教える人がたくさんコロサイの教会の中に入り込んで来ました。グノーシス派(グノーシス主義)の人々はクリスチャン達を見て、自分たちは彼らより優れた知恵や知識を持っていて、クリスチャンたちよりも優れた真理を持っていると自負し、信仰者たちを冷笑し、偽りの教えをもって彼らを惑わしていたのです。そのように、教会には内外から様々な誘惑がありました。どうしてこのような偽りの教師たちが存在するのでしょう? 彼らはいったい何をしようとしているのか、なぜ人々を惑わし続けるのか? その答えは簡単です。それはクリスチャンから主の祝福を奪おうとしているのです。

 

悲しいことは、せっかくこの救いに与(あずか)ったのに、神があなたに喜びと感謝、そして、希望を与えて下さり、素晴らしい人生を歩む者と神がしてくださったにも関わらず、その喜びある祝福された生涯を歩んでいないクリスチャンがたくさんいるという現実です。イエスを信じる前と同じように様々な恐れや不安を抱きながら、暗く喜びもなく満足もなく歩んでいるようなクリスチャンがいるという、悲しい現実を私たちは知っています。恐らく、あなたもそのような経験をしたことがあるでしょう。喜びが無くなってしまい、いろいろなことに悩み、疲れてしまう…。サタンは巧妙で、あなたを弱らせようとします。あなたが混乱し、あなたの信仰が成長しないようにと様々な罠を仕掛けてきます。

 

パウロはこの書簡(コロサイ人への手紙)の中で6回も「だまされないようにしなさい」と命じています。それは、騙すものがたくさんあるからそのような警告をしたのです。この2章を見ると、パウロは人々を惑わし続けていた偽教師たちのことを挙げています。まず、8-10節を見ると「哲学」のことが記されていて、11-17節「律法主義」、18-19節「神秘主義」、20-23節「禁欲主義」のことが記されています。

そして、この8節を見るとその中に「注意しなさい」とあります。パウロは敢えてこの命令を文章の最初にもってきました。同時に、この単語を直接法で使っています。なぜそのような使い方をしたのでしょう? それは、パウロがこのコロサイのクリスチャンたちが直面している危険というものを熟知していたからです。彼はまさにコロサイのクリスチャンたちが危険な目に遭遇していることを知っていたのです。ですから、「そのようになるかもしれない」とか、「いずれ来ますよ」ではなく、もうそのような危険な目に彼らが遭遇していたことを知っていたゆえに、この危険を「今、起こっていること」として表わしたのです。それが、パウロがこのことばをこのように配列(ギリシャ語原文)した目的だったのです。読者たちに危険が現実のものだからしっかり目を開いていなさい、気をつけていなさいと、その緊張感が伝わります。パウロは今すぐにその問題があると確信してこのように語るのです。

 

◎人々を惑わすもの
1.哲学 8-10節
8節「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。」、「哲学」ということばは「愛」フィレオーということばと「知識、知恵」ソフィアということばが合成してできています。知恵を愛するということです。哲学と聞くと私たちは難しいと感じてしまいます。また、哲学者と聞くと彼らは偉い人で賢い人で、彼らの言うことはみな正しいと思ってしまいます。このような笑い話を聞きました。

うちの先生は偉いのです、なぜなら、言っていることが難しすぎて分からないからと…。そのようなことを哲学者も言っているのです。フランスの哲学者で近代哲学の父といわれたルネ・デカルトはこのように言います。「哲学はあらゆることについてまことしやかな話をし、学の浅い人々の称賛を博する手段を与える」と、失礼なことを言っています。また、フランスの哲学者ボルテールも「聞く者には何も理解できず、語る当人も同様に理解していない、これが形而上学である」と。笑い話に聞こえますが、そのような人々の教えに多くの人たちは「ああ、賢い人だ、すごい人だ」と思ってしまうのです。

でも、パウロはそのように思わなかったのです。8節を見ると、彼が哲学をどのように見ていたのか、彼の考えが記されています。「あのむなしい、だましごとの哲学」と言います。パウロは哲学は「むなしい、だましごと」であると言うのです。どうして彼はそのように言ったのでしょう?彼はその哲学の本質を知っていたのです。

 

(1)むなしいもの=真理のない、空虚な、中身のないものという意味です。なぜ、むなしいのか、二つの理由を挙げています。

(a)人の言い伝え
人の言い伝えによるものだから、人間の教えだからむなしいと言います。悲しいことに、人間はこのような先輩たちのことば、先祖のことば、昔から守ってきた慣習に弱いです。イエスがパリサイ人や律法学者と話されているところを見ましょう。

マタイ15:1-3
「そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。:2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」:3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」、

パリサイ人や律法学者たちはイエスを責めます、「なぜ昔の先祖たちの言い伝えを犯すのですか」と。それに対してイエスが言われたことは「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。」と、いったい誰の教えを優先しようとするのかということです。あなたがたは何よりも神の教えを優先すると自負する人たちでしょう、しかし、あなたがたが今していることは神の教えではなくて、人間の教えを神の教え以上に尊重している、そこに問題があることに気付かないのかと言うのです。人間が神の教えよりも自分たちの考えや教えや慣習を優先するということは、陥り易い問題です。いつの間にか、私たちは昔からこのようにやってきたのだからと、あたかも、それが神が言われたように、聖書が教えているかのように思い込んでしまっている、でも、実はそうではなくて、人間が始めたことを尊ぶがゆえにいつの間にかそのように間違って捉えてしまう、そういうケースというのがあります。まさに、このパリサイ人や律法学者たちはその通りのことをして、イエスに指摘されたのです。パウロは知っているのです、哲学は人間の教えではないかと。

(b)この世に属する幼稚な教え
この世に属する幼稚な教えによるものだから、8節の最後に「キリストに基づくものではありません」、キリストの教えではなくてこの世のものでしょう、だから、むなしいのだと言います。ガラテヤ4:3でパウロは「私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。」と言っています。つまり、人間が教えることを守り行なおうと一生懸命してきた、まさに奴隷のように、しかし、その教えは神の教えではなく人間の教えだった、そのことに気付かなかった、なぜなら、私たちはまだ小さかったから、まだまだ成長していなかったから、まだ真理が何か知らなかった、分からなかったからと。子どもがおとなになって、子どものとき大切にしていた宝物がいかに価値のないものであるかに気付いたりします。パウロが言っていることは、そのときは気付かなかったけれど、成長とともに人間の教え、それは幼稚なものであり大切なものではないということに気付いたということです。

人間の知恵のむなしさ、そのことは次の三つのことからも言えるでしょう。一つは、人は人間の知恵によって真の神を知ることはできないのです。Ⅰコリント1:19からパウロは教えています。

「それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」

つまり、人間の知恵によって真の神を知ることはできない、どんなに知恵を蓄えても、どんなに人間の勉強をしても、神を見い出すことはない、だから、むなしいのだと言います。また同時に、人は人間の知恵によって何が神に喜ばれることかを知ることはありません。どんな知恵を得たとしても、その知恵はどんなことを神が喜ばれるのかを教えることはないと言います。三つ目に、人は人間の知恵によっては何が真理であるのかを見極めることができません。その証拠に、私たちはあのオームという悲しい事件を目の当たりにしました。驚いたことは非常にIQの高い人たちがその中にいたということでした。あれだけ優秀でも彼らは何が真理なのか、何が正しいのか見極めることができなかったのです。

 

(2)だましごと
非常に厳しいことばです。確かに、2:4でもパウロは同じことを言いました。

「私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。」と、つまり、いろいろな教えによって人々は間違いに導かれて行く可能性があるというのです。間違いに導くために使われる教えは、非常にまことしやかもの、だから、惑わされるのです。でも、そのような教えが存在していることは明らかです。パウロがここで「だましごと」と言ったのは、このような考え、哲学の背後にだれがいるのかを知っていたからです。もちろん、哲学だけではありません。人間の考え、人間の知恵の背後にはだれがいるのか、「だますもの」とは?サタンです。サタンはそのことを望んでいるのです。ヨハネの福音書8:44でイエスは次のように言われました。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

サタンがすることは皆を惑わすことです。あたかも真理であるかのように示して間違った道へと導こうとするのです。ですから、Ⅱコリント4:3-4で救いに関してパウロはこう言っています。

「それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。」

福音のすばらしいメッセージを聞いても、なぜ人々はそのすばらしさに気付かないのか、

「:4 そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」

つまり、彼らが福音のメッセージを聞いても魅力を感じないのは、彼らのうちにサタンが働いてその素晴らしさを見せないようにしているからだと言うのです。なぜなら、それが分かれば自分の罪深さが分
かり、自分が罪人だということが分かり、自分の力で自分を救うことができないということが分かり、
そして、そこに希望があってイエス・キリストによって救われるということが分かれば、当然、誰もが
その救いを求めて出てくるはずです。でも、出てこないという現実は何が起こっているのでしょう? こ
れは、私たちも同じでした。何度福音を聞いても自分にそれが必要だと思えない、そうしてサタンは
見事に福音の素晴らしさ、福音の光を輝かせないように騙すのです。
これはイエスを信じていない人にだけ働くのではありません。信じている人にも働いてその信仰を弱らせようとします。クリスチャンの信仰を弱らせようとサタンは働くのです。エペソ人への手紙の中でパウロはそのことを言っています。

6:11-12「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」

あなたの敵はサタンだと言います。そして、あなたの戦いはこのサタンに対するものだとこのように言います。「:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」と、サタンは必死になってあなたの信仰を弱らせようとします。いろいろなことをもってあなたを惑わせてあなたが真理を見ないで他のものを見るように、神からの祝福を失ってしまうように、そのように働くのです。パウロが「だましごと」だというこの哲学をサタンは用いるのです。サタンが人々を真理から引き離すために用いる道具です。だから、パウロは哲学はむなしいだましごとであると言ったのです。

よく考えてみると確かにそうです。この世の知恵は私たち人間に最も大切な救いに関して、救いを与えるといいながら与えられないからだましごとなのです。そして、どれだけ蓄えても救いに到達しないからむなしいものなのです。私たちがそれを一生懸命学んだとしても、肝心なことに役立たない知恵がなぜ必要なのでしょう?もちろん、勉強を止めなさいと言うのではありません。神から与えられた務めとしてしっかり学んで行くことは必要です。しかし、何を学ぶかが大切なのです。私たちが学ぶのなら本当の知恵、神の知恵を学ぶことが必要です。そのときに私たちの人生が変わるからです。そのときに私たちは神の祝福の中を歩み続けて行くことになるからです。なぜなら、私たちが抱えている様々な疑問や問題にいったいだれが答えてくれるでしょう?私は死んだらどうなるのだろうと考えます、いろいろな答えを聞きます。

 

何のために私は生かされているのだろう?いろいろな答えを聞きました。
どうすれば生かされていることを喜ぶことができるのか?
人はいろいろなことを言います。
どうすれば心からの満足を得ることができるのか?
どうすればどんなときにも喜びをもって生きることができるのか?どうすれば精神的に辛いときに喜びをもって過ごすことができるのか?
どうすればすべてのことに感謝をもって生きることができるのか?
病気の中にあって、職を失ったときも、受験に失敗した、何か大きなことに失敗した、そんなときにも感謝をもって生きる、どうすればそんなことが可能なのか?
どうすれば現実に抱えている問題に押しつぶされることなく、そのことを感謝できるようになるのか?
どうすればどんなときにも希望をもって生きることができるのか?
どうすればすばらしい家庭を築くことができるのか?
どうすれば夫婦の関係をより良いものに改善できるのか?
どうすれば伴侶を愛して行けるのか?
どうすれば夫として妻として父として母として、その責任を果たすことができるのか?
どうすれば子どもを正しく導いて行けるのか?
どうすれば親を尊敬できる子どもになれるのか?
どうすれば誘惑に負けないでそれに打ち勝つことができるのか?

 

このような質問はもっともっと出てきます。私たちはいろいろな疑問、問題を持って生きて来た、今も生きています。そして、この世の知恵はこのような大切な疑問に対して自分勝手な答えをくれるのです。人によって答えが違うのです。それはこれらのことが真理ではなくて人間の考えであることの証拠です。

例えば、カウンセリングのことを考えてください。日本でも最近ポピュラーになって来ました。昨日、私たちは中学生が殺害されたという非常に悲しい事件を耳にしました。学校で保護者の集会が行なわれて話し合われ、学校側が取ると約束した対策のひとつは、学校にカウンセラーを呼んできて生徒たちがカウンセリングを受けるようにしますというものです。でも、カウンセリングは今200以上もあります。つまり、皆人間の考えだからです。例えば、子育てに関してもいろいろな考えがあります。そして、その人たちが本を書いて、書店にはたくさんの本が並んでいます。皆さん考えたことがありますか?だれがそのような考え方を生み出したのか、だれが教えているのか?この人たちはいったいどういう人たちなのか?と…。

アメリカの例ですが、非常におもしろい記録が残っています。1960年台の後半から70年代にかけて、アメリカにおいて伝統的な家庭の崩壊が始まったと言われています。両親がいて子どもたちがいて道徳的なことを優先し愛し合っていたわり合って生きる、そして、そこにはいつも神がいる、そのような伝統的な家庭です。その崩壊が始まったというのです。信仰に基づいた親たちや先祖たちの子育てを捨てて、様々な時代の教えを取り込んだ新しい戦後生まれの親たちの子育てが始まって行ったのです。戦後生まれの親たちがいろいろな世の中の知恵を集めて、新しい子育てを始めようとしたのです。こういった子育てに影響を与えたのが、18世紀の哲学者、ジャン・ジャック・ルソーなのです。彼は教育に関しても多くの本を書いた人物です。確かに、彼はことばに非常に長けていましたが、道徳的には問題を抱えていました。彼は子どもに対する愛を持ち合わせていない人でした。愛人との間に生まれた5人の子どもは誕生と同時に孤児院に送ります。その孤児院は1年に3000人以上の見捨てられた乳児を引き取る施設で、その3分の2は1年の間に亡くなっているのです。ルソーは自分の子どものだれ一人にも名前を付けることも誕生日を記録することもしなかったのです。彼はまた彼らの生別を知ろうともしなかった、後に無心論者のボルテールから幼児殺しとの批判を公に受けたとき、彼はこのように答えているのです。性質によって悪くなったというよりも、人は本来良いものとして生まれ、悪い思いや行動を生まれつき行なうことができないのである。子ども達はおとなの慣習によって汚されるまで正しく罪のないものであった、両親や教師たちは子どもたちを悪に導く傾向にある、それは腐敗の要素だからである。親や教師たちは腐敗の要素だと言うのです。子どもは国、専門家によって育てられたほうがましである、子どもは自由に何にも束縛されることなく生き続けるように励ますべきであると。

このようなことを信じていた人の教えをどうして私たちが受け入れるのですか?人は生まれながらに罪人であるという聖書の教えを信じようともしないのです。そして、このルソーは近代史において子どものもつ罪の性質に関する聖書の教えに、最初に猛烈に反対した人物です。もう一度言います。いったい私たちはこの人から何を学ぶというのですか?

 

多くの哲学者たちは人は罪人として生まれてきたのではないということ、また彼らは、子どもたちは自然から生まれた者であり、正しく高潔であり罪の行為ができないだけでなく、それに関する責任がないと言うのです。このような考えを受け入れた人たちは当然、子どもをしつけることなどしません。そして当然、親として重大な責任である子育てを専門家に託してしまうのです。考えて下さい皆さん、クリスチャンが神を知らない人たちに子どもを託してどうするのですか?神を知らない人たちから、何でも吸収しようとしている子どもたちにいったい何を学ばせたいのですか?人間について教える聖書の教えから完全に逸脱しているのです。哲学のこの「哲」ということばは辞書によれば、明らか、賢いという意味があると言います。広辞苑では「哲学」というのは世界や人生の究極の根本原理を追求する学問であると言い、またある辞書は、経験から作り上げられた人生観であると言います。またあるものは、哲学とは世界や人生の一番大切なもの、根本的なものを追求する学問であると言います。

 

確かに聞こえはいいかもしれません。しかし、この哲学の最も大きなあやまちはすべての根源である神を忘れたところにあるのです。そして、この方の知恵によって記された聖書から完全に離れたしまったこと、そこに問題があるのです。だから、パウロはローマ人への手紙1章でこのように言うのです。1:22「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、」と、自分たちは知恵があるというかもしれない、しかし、神は彼らを見てあなたたちは愚か者だと言うと。また、旧約聖書の詩篇14:1にも「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。」とあり、53:1でも同じことが言われています。「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」。この地上にあって、どんなに人からあの人は賢い人だ知恵があると言われても、神を忘れた人、神に関心を示さない人に対して神が言われることは「あなたたちは愚かだ」ということです。
どうしてこんな知恵に私たちは心を動かされて行くのでしょう?どうしてこんな知恵に時間を割くのでしょう?私たちが求めなければいけないものは神の知恵ではないでしょうか?あのソロモンが伝道者の書の1章の中でこんなことを言っています。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」(16節)と、確かに彼は最も知恵ある人物でした。その彼がこう言います。17-18節「私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。:18 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」と、ソロモンが言わんとしたことは、どんなに知恵を得たとしても神の祝福を得ることはないということです。神を忘れて知恵をいくら追求したとしても、そこには期待しているもの、求めているものはないと。彼は最後にこう言います。12:13「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」、知恵を追求した人物がこのように言うのです。知恵には答えがないと。人間に必要なことは知恵を追求してむなしい人生を送るよりも、むなしい永遠を過ごすよりも、神を恐れ、神の命令に従って生きること、そのときに私たちが求めているものを神がくださるのです。

パウロはこの知恵に関してコロサイ1:9でもそのことを彼らのために神に祈っています。「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」と、知恵、理解力、もうすでに私たちは学んできました。パウロが祈った知恵とは「神のみことばを正しく理解しそれを自分の人生に適用すること」、その知恵でした。神が何を言われているのか、何を教えようとしているのか、それを正しく学び、そして、それを自分の人生に生かして行く、なぜそれが大切なのか、それによって私たちは変わって行くからです。その知恵が、私たちがもっている先ほど見たいろいろな疑問に対して答えをくれるのです。人は死んでどうなるのか?聖書が答えをくれます。どうしたら天国に行くことができるのか?聖書が答えをくれます。どうしたらどんなときでも喜んでいることができるのか?聖書が答えをくれます。なぜなら、これは神の知恵だからです。だから、私たちはこのみことばを通してしっかりと神のことを正しく学ぶことが必要です。そして、学んだことを実践することです。

 

◎神の知恵によって生きるために
パウロがもうすでに私たちに教えてくれたことです。
(1) まずあなた自身がこの神の知恵によって満たされて行きたい、もっと知恵をいただきたいと求めることが必要だということです。
(2) そのためには、それを妨げるものをあなたから取り除いて行かなければいけないと言いました。この世のいろいろな教えや考えはそれを惑わします。世と調子を合わせてはいけないとパウロが言ったように…。
(3) そして、しっかりとみことばに立ちなさい、神の知恵が記されているこの聖書のおことばにしっかり立ちなさいということを、もうすでに教えてくれたのです。これは、どの時代であってもどこの国の人であっても、みなに共通していることです。神の知恵をいただいてその神の知恵によって成長しなさいというのです。そうするなら、あなたは神の祝福を十分にいただいてそのことを喜びながら、この地上の人生を歩んで行くことができる、その秘訣はしっかり神とつながっていることです。しっかり神とともに歩くことです。

 

「注意しなさい」とパウロは言いました。惑わすものが多いからです。みことばに立ってしっかり目を開いていなさい、目を見開いて行きなさい、そして、神の祝福をいただいて歩んで行きなさいと、それはパウロ自身がしたことであり、パウロがあなたに望んでいることです。クリスチャンである皆さん、注意しなければいけないのです。サタンが必死になったあなたを惑わそうとするからです。みことばに立ってください、神の知恵に…。