聖書からの逸脱 6 「自己受容 3」

■ 純粋に見える、ことば

サタンのもたらす偽りは、とても素晴らしい真実のように語られることが大きな特徴の一つです。非常に巧妙に惑わしを持ち込んで来ます。あたかも聖書のことばのように、語ってきますし、神の御心にかなうことのように語って来るので、これを見分ける力というのはその惑わしを受ける側の学び、訓練、信仰がどうしても不可欠になってきます。

イエスがサタンの試み、誘惑、惑わしを受ける場面がマタイの福音書の中に出てきます。不遜にもサタンはイエス様にさえ次のような試みを行います。

 

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げ入れてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。  マタイの福音書4:1-11

 

サタンは聖書のことばさえ用いてイエスをなんとか真理の道から外れさせようと(逸脱させようと)、誘惑をしました。この時サタンはあのエバに近づいた時と同じように、今回もうまくいくと思ったかどうかはわかりませんが、そのやり方は全く同じです。まず近づき、疑いを持たせるようなことばを投げかけ(ここまでは実行できました、というより実行することを赦されました)、心に疑いの種を持たさせ、そして行動に移させる、というのが彼の目的だったのでしょう。

人の姿をとられたイエスは人としての弱さを身にまとわれていたので、空腹を覚えられました。そしてその「肉」の弱さにサタンはまず働きかけました。一見、親切のように見えるかもしれません。空腹の人に、空腹を満たすためのアドバイスをするわけですから。

神殿の下に身を投げ入れるように語った時も、聖書のことばから語られていることなので、これも真実のように受取ることが、解釈によっては可能です。全世界の栄華を見せられた時も、このような素晴らしいものを与えてくれるなら、これほど大きなプレゼント、恵みは他のだれからも聞いたことないでしょうし、富がもたらす喜びを考えるなら最も素晴らしい申し出としか言いようがありません。

サタンの語るときに、「非常に素晴らしい言葉」「素晴らしい表現」といったような形をとってくることがあるのです。一見して分かる「悪」というものが勿論存在しますが、私たちにとって非常にわかりにくく、判断が難しく、しかしとても大きな分かれ道になるような場面、状況に直面することがあるのです。何が良くて、何が悪いのか、何が御心で、何が御心に反するのか、それらを私たちは十分に理解(悟り)を得る必要があります。

 

私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。  Ⅱコリント人への手紙2:17

 

私たちの信仰に、主は「純粋さ」を求めておられます。
混ぜ物をしてはいけないのです。決して。

ペテロが、ある時、人間的に見ればとても良いことを言っているように思えるが、イエス様にこれ以上ないくらいの厳しい言葉により戒められた箇所があります。

 

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに言って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 マタイの福音書16:21-26

 

ペテロがサタンにいいように使われてしまっていることを、イエス様は完全に知っておられました。「人間的な考え方」そのものが完全にサタンと同化してしまっている、同調してしまっている現実をここに見ることができます。聖書が示すことと、人間が考える「良い事」が相反することさえある、ということです。

私たちが神の御心、何が真実で正しいことなのか判断できる材料は、この世界で唯一、「聖書」だけ、なのです。これ以外に基準を設けてしまうと、それは全て神に敵対する存在になり得るのです。

聖書に書かれていることを正しく受取り、正しく解釈しないと、本当に恐ろしい結果が待っています。逸脱解釈をもたらしている存在が「手を叩いて喜んでいる」そのような姿を想像してみてください。