迫り来る神のさばき

08/04/27 礼拝メッセージ 近藤修司 牧師

主 題:迫り来る神のさばき
聖書箇所:ローマ人への手紙 1章18-23節

メッセージを聴く

「私は福音を恥とは思いません。」とパウロは言いました。どうして?という問い掛けに対して「なぜなら、この福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力であるから」とパウロは答えました。パウロはまた、このように質問します。「どうしてそうなのか?」と、もうすでに私たちが見てきたように、このみことばはパウロが語ったことを受けて話を進めて行きます。語ったことの理由を述べながら話を展開して行きます。どうして、信じるすべての人にとって福音は救いを得させる神の力なのか?

そのように質問する人々に対して、「なぜなら、福音には神の義が啓示されているから」と17節で語りました。福音のメッセージ、人類への良き知らせです。神の御子イエス・キリストの死と復活のメッセージです。人としてこの世にお生まれになったイエス・キリスト、彼だけがすべての点において父なる神の前に完全で正しかった、義なる人でした。聖さにおいても従順さにおいても完全でした。そして、このお方が十字架で、私たちに定まっている罪の刑罰を代わりに受けてくださった、この身代わりの死ゆえに、このイエスを信じる者の罪を父なる神は赦してくださるのです。しかも、父なる神はイエスを信じる者にこのイエスの義を与え、義なる者と宣言してくださったのです。そのため、イエス・キリストを信じた一人一人は神の前に義なる者、正しい者と神がみなしてくださる、これが聖書の教える救いです。

だれか立派な人が語ったことを私たちが一生懸命守ろうとしているわけではありません。イエス・キリストの十字架の死と復活が私たちに提供してくれたのは、あなたの罪からの救いです。復活のメッセージ、十字架のメッセージ、この福音のメッセージは信じる一人一人にこの救いをもたらすのです。なぜなら、イエスがあなたの身代わりとなって十字架で死んでくださり、あなたの罪を赦してくださったからです。同時に、信じるあなたにイエス・キリストがお持ちだった義を提供してくださるのです。だから今、イエス・キリストを信じたあなたはこの義なる神の前に立つことが赦されるのです。

このように話を展開して来たパウロ、この救いによって私たちは神の義をいただくことができる、信じる一人一人は神の前に義とされる、そのように神が宣言してくださると話した後、18節に続いて行きます。パウロは、では、どうして人は神に義とみなされる必要があるのか、なぜ、人には救いが必要なのか、その質問に18節で答えてくれるのです。

☆どうして人間は救われることが必要なのか。

1.神の怒りが天から啓示されているから

18節の最初は「というのは、」ということばから始まります。しかし、原語では17節と同じ接続詞「なぜなら」ということばが記されています。つまり、「なぜなら、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」と、これが理由としてパウロが挙げたことです。なぜ、罪人は救われる必要があるのか、なぜ、罪人は神の義をいただく必要があるのか、なぜ、神の前に義と認められる必要があるのか――。それは「神の怒りが天から啓示されているから」です。

パウロは、人は例外なくみな、神の怒りを引き起こしている、神を喜ばせるどころか神の怒りを招く者として、そのような生き方をし続けていると言います。そして、恐ろしい事実は、神がその罪を必ずさばかれるということ、パウロはそのことをここに記したのです。彼が言いたいことは、それがユダヤ人であろうと異邦人であろうと、すべての罪人に神が警告していることは罪がさばかれることだということです。ただ確かに、この18節から見て行くと、18-32節まではその中でも特に異邦人の罪について、2章1節から3章8節まではユダヤ人に焦点を当てます。そして、3章9節から20節は、もう一度すべての人々に対して書かれています。ですから、私たちが今日学んで行くところは「異邦人に対して」と言えるのですが、そのようにはっきりとした区別をする必要はありません。なぜなら、異邦人であろうとユダヤ人であろうと、神の前に同じような罪を繰り返しているからです。

ある一人のアメリカの有名な牧師がインタビューを受けました。その教会は多分アメリカで一番たくさんの人が集っている教会です。インタビュアーは「先生は、罪についてのメッセージを余りされませんが、どうしてなのですか?」と質問をしました。その時、その牧師は「罪について話していますよ、いつもメッセージの終わりのところで罪について触れています。でも、私はそのように罪について話すために召されてはいない、私は人々に希望を与えるために召されたのです。毎日の生活で苦しんでいる人、死の病の中を歩んでいる人々に希望を与えるために召されたのです。」と答えたそうです。その話を聞いて、このみことばを思い出しました。だれでも、さばきについて話したいかと言われたら、どちらかというと、それよりももう少し楽しくなるような、聞いていてうれしくなるような話がしたいのは、みなに共通していることでしょう。では、なぜ私たちがこのようにさばきについて話しをするのでしょう?それは聞いている皆さんを恐怖に陥れるためではありません。聖書がそのことを言っているからです。だれもこの18節のみことば、その後に続くみことばは余り語りたくないのです。なぜなら、ここにはさばきがあるから、ここには永遠の滅びが記されているからです。できれば避けて通りたいと、そのように思う人がいるのは仕方がありません。しかし、神のおことばを見た時に、この「さばき」は避けて通れないのです。

2.さばきがあるから

パウロは「さばきがあるから福音が必要なのだ」と言います。さばきが確実だから救いが必要だと言うのです。もし、人間が死んでそれで終わってしまうのだったら、イエス・キリストはこの地上に来る必要もなかったし、イエス・キリストは十字架に架かる必要もなかったのです。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれ、そして、約束どおり三日後によみがえって、すべての罪人のために救いを備えてくださった。なぜでしょう?それは罪人が永遠の滅びに向かっているからです。その先には永遠の地獄があるからです。だから、救いのメッセージが必要だった。それがパウロがここで伝えたいことなのです。なぜ、福音のメッセージが必要か、なぜ福音によって救われることが必要なのか、それはすべての罪人が永遠の滅びへと向かっているからだと言うのです。

今日、パウロがこの18節で私たちに教えてくれるのは、罪人がさばかれるそのわけです。

☆なぜ、罪人はさばかれるのか、その理由。

1.その人の誤った選択のゆえに

人々は「不義をもって真理をはばんでいる」とパウロは記しています。誤った選択、罪のことです。どのような罪でしょう?
(1)真理を受け入れない罪
「真理をはばんでいる」というのはそういう意味です。では、私たちは真理とはいったい何なのかを考える必要があります。ジョン・カルビンはこう言います。「真理というのは神についての真実な知識を意味する」と。彼が言うことは「真理というのは神についてだ」ということです。補足するなら、真理というのは神のことであり、そして神が語られることです。みことばの中ではそのことが明確に教えられています。イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました。申命記32:4では「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」とモーセが言いました。神というのはすべてにおいて正しい方だ、なぜなら、神は真実の神、正しい神だから。ですから、真理というのは神のことです。神だけが何が正しいのかを知っているのです。私たちはそのことは分からない。でも、神は何が正しく何が間違っているのかを知っておられます。同時に、神がお語りになったことば、それも真理です。真理なる方から語られたことばは間違いなく真理です。それが記されているのが、私たちが手にしている神のことばである聖書のみことばです。イエス・キリストがポンティオ・ピラトの前でさばきを受けた時、このように言われました。ヨハネの福音書18:37「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」と。

私たちにはたくさん疑問があります。人は死んだらどうなるのか、神はおられるのか、私たちの永遠はどうなのかと。そのような私たちが持つさまざまな疑問に神は答えをくれます。それが記されているのがこの聖書です。イエスは言われました。「わたしは真理を人々に明らかにするためにこの世に来たのだ」と。だからイエス・キリストは地上におられた時に、人々の前で神がどういうお方なのか、真理とはいったい何なのかを教えてくださいました。そのことがこの聖書に記されているのです。この真理、この神によって、神のおことばによって信じる者には救いが与えられます。同じヨハネの福音書8:31-32でイエスはこのように言われています。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。:32そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と。この真理によって私たちは罪から解放され、真理によって私たちは罪の力から勝利するのです。真理は私たちに自由を与えてくれると言います。しかし、それでいながら、人間の罪というのは、その真理を受け入れようとしないことです。それを阻むのです。「阻む」とは防止する、邪魔する、阻止する、抑止する、つまり、この真理に対して心を開こうとしないのです。この真理に対して心を向けようとしないのです。かえって心を頑なにして、それに耳をふさいでしまうのです。ですから、言い方を変えるなら、パウロがこの18節で最初に教える人間の罪、人間の問題とは何かというと、それは彼らの誤った選択、真理、つまり、神を、神のおことばを拒んでいるという罪です。この誤った選択に問題があるというのです。

(2)不義を選択している罪
真理を受け入れず、神に対して心を閉ざしているだけではない。彼は二つ目の罪をこう言います。真理ではなくて逆に不義を選択していると。ですから、18節で「不義をもって真理をはばんでいる」というのです。真理を受け入れないだけではなく、かえって彼は不義を受け入れて、不義を選択し、不義に従っていると言います。「不義」というのは正しい道から外れているということです。正しさに反することです。人間は真理なる神に対して、真理なるみことばに対してどんな罪を犯しているか。神よりも自分の考えに従おうとするのです。

このローマ人への手紙の1:25を見てください。「それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」とあります。人間がしたことは、真の神を信じないだけではなく、偽りを神として信じるようになったと言うのです。神でないものを神として崇めるようになったと言うのです。なぜなら、人間は創造主なる真の神に従いたくないからです。そんなことをすると自由がなくなってしまうと私たちは思うのです。私たちは好き勝手に、自分の思い通りに生きて行きたいのです。それを阻止するようなものはありがたくも感じない、ですから、私たちの好き勝手にさせてくれるものに心を開くのです。それで私たちの周りには神と名のつくものがあふれています。みな、私たちに従順を、服従を要求しません。私たちが好きに生きて行くことを容認してくれる、私たちの欲しいものを与えてくれます。人間というのは神に従って行きたくない、自分たちの思いどおりに生きて行きたいのです。そのために自分にとって都合のよい、偽りの存在を造り始めるのです。おもしろいですね。それは何を意味しているか、この後の学びの中で明らかになって行きますが、人間は神がいることを分かっているのです。ただ、その方に従いたくないのです。それで自分の好きなようにさせてくれる、そういう存在を造り、その存在に従っているのです。神に従うよりも自分の考えに従って行きたいと同時に、私たちは神よりも罪を愛するのです。

ヨハネの福音書3:19-21でイエスはその問題についてこのようにお語りになりました。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。:20悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。…」と。人間というのは、神よりも罪を愛する者だというのです。神に従うよりも自分の好きなように生きて行きたいと。そこに問題があると言っているのです。ですから、18節でパウロは、なぜ罪人がさばかれるのか、その一つ目の理由は「間違った、誤った選択に原因がある」と言うのです。Ⅱテサロニケ2:10でパウロは「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」と言い、12節には「それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」と書かれています。ですから、聖書が私たちにはっきりと教えてくれるさばかれる理由、それは「誤った選択」にあるのです。

2.誤った生き方のゆえに。

二つ目の理由は誤った生き方にあると言います。1:18に戻って、パウロは「不敬虔と不正に対して」と言いました。パウロは「心が悪ければ、必ず悪い行ないが生まれます」ということを言います。私たちの心が神の前に正しくなければ、当然そこから生まれて来る行動は神の前に汚れたものです。宗教が一生懸命しようとすることは、私たちの行動を変えようとすることです。私たちの性格を変えようとします。でも問題は、私たちの行動や性格ではないのです。問題は私たちの心なのです。イエス・キリストはあなたの心を変えるのです。心が変わることによって、当然、あなたの行ないが変わってきます。

私たちが心をさて置き行動だけを変えようとすると、必ず行き詰まります。なぜなら、できないことをやろうとするからです。イエス・キリストが来られ、イエスがしようとすることは、あなたの心を生まれ変わらせること、あなたの心を変えてくださることです。そしてそこには、心変えられた者としての正しい行ないが伴って来るのです。心が悪いと必ず行ないが悪くなるということは、繰り返し聖書が教えることです。

あの「ノアの洪水」を思い出してください。その当時の人々は、非常に大きな罪を犯していたことが創世記6章に記されています。その中で6:5にこのようなことが記されています。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」と。どうして、その当時の人々がそのように罪にふけったのかというと、みことばはその人々の心に問題があったのだと教えてくれています。マルコ7:20でイエスは「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」と言われました。21-23節「:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」と。同じことを聖書は教えているのです。

どの時代のどこの国の人間であろうと、人として生まれた私たちは、心が汚れているゆえに、私たちの行ないも汚れているというのです。ですから、18節の「不敬虔と不正」ということばを見て、「不敬虔」というのは「不信心」と訳すことができることばです。「不正」と訳されていることばは、先ほど見た「不義」ということばと同じギリシャ語が使われています。ですから、パウロは、その一つ一つのことばの意味を悟らせるというよりも、人間は本質的に神を敬わない存在だ、そこに問題があるのだということを言いたいのです。私たちの心に問題があるなら、それは必ず行動になって出てきます。神を敬わない人間にとって、悪を行なうことは朝飯前です。心が神の前に正しくない者が神の前に正しくない行ないをするのは当然です。

ジョーン・ストットという神学者は「聖書は罪の本質は不敬虔であることを教えている。それは神を排除しようとする試みである。それが不可能であるため、あたかもそれがうまくいったかのように人は生きることを決心した。彼らの前には神に対する畏れがない。」と言っています。私たちの罪の本質の部分、それは神に対するが畏れがないことです。今のこの社会は畏れることがなくなった社会、世代と言われます。何も畏れないのです。年齢の区切りが分かりませんが、少なくとも畏れるものを持って育ってきた皆さん、父親が恐ろしかった、何か畏れる存在があったその世代と、そういうものが全くなくなってしまった世代とは根本的に違います。

今の世の中は人は何をしても構わない、罪もどんどんエスカレートしています。なぜでしょう?畏れるものが何もないからです。聖書が私たちに教えてくれる私たちの一番大きな問題というのは、神に対する畏れを私たちが持っていないことです。ローマ1:21を見てください。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」とパウロは教えています。つまり、神がいることを分かっていながら、先ほども見たように、どれが本当の神なのか、その真理を求めようとしないこと、正しい真の神を神としてあがめることもない、その方に感謝をしようともしない、そこに人間の問題があるというのです。

聖書の中に「子どもたちよ、両親を敬いなさい」と教えられている箇所があります。モーセによって与えられた十戒の中に出てきます。しかし、この親子関係をよく考えてみると、子どもは私たち親の私物ではありません。子どもたちは神によって造られ、そして、私たち親に託された者たちです。ですから、私たちが子どもを造ったのではない、創造主ではありません。しかし、それでいながらみことばは、その子どもはその親に対して尊敬を払いなさい、親を敬いなさいと言います。では、私たちを造ってくださった創造主に対してはどうでしょう?創造主に対して、私たち被造物は、心からの尊敬、心からの愛というものが要求されて当然ではありませんか?人間の問題は、この創造主を敬わないことにあると言います。神との関係において問題があるなら、その人を悪い方向へと駆り立てて行きます。問題は神を敬わない心です。詩篇14:1-3を見てください。「愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。:2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」と、「神はいない」と言っている」、それは「愚か者」だと言っています。「善を行う者はいない」、みな、神に対して、神にふさわしい敬意を払っていないと言うのです。

イスラエルの間に大きな問題がありました。さまざまな問題の中、人々は信仰的純血において堕落して行くのです。確かに彼らは、いけにえを捧げ、献金を捧げ、捧げ物を捧げてはいたのです。確かに律法が言っていることをやってはいたのですが、彼らの行ないは形だけのものであって、心が伴っていなかったのです。形式主義に走ったのです。

その時に、主はこのようなことを言われます。マラキ書1:6「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。――」と。このみことばを考えてください。創造主なる神が、私たちに望んでおられることは形だけの信仰ではないのです。こうして礼拝に集って来ても、あなたの心がどうかと神は見ておられます。あなたが捧げる賛美にしても、あなたが捧げる捧げ物にしても、神の関心はあなたの心がどんな状態にあるかです。私たちは神をだますことができない、欺くことはできないのです。なぜなら、神はあなたの心のすべてをごらんになっておられるからです。ですからパウロは、このみことばを通して、私たちの問題とは不敬虔だ、神を敬っていないと言うのです。マラキは神のことばとして「いったいどこにわたしへの尊敬があるのか、いったいどこにわたしを敬うその思いがあるのか」と言います。

私たちはそのことを考えなければいけません。イエスを信じておられない方は、残念ながら、そのような歩みをしています。神を敬っていません。問題はクリスチャンです。

あなたの信仰、あなたの生き方、あなたの選択、すべては神を敬うものですか?神を畏れて神を愛するゆえに為している行為ですか?形だけの信仰者になっていませんか?こうして礼拝に来ても、何をしていてもあなたの心は全然伴っていない、あなたの心は喜びに満たされていない、あなたの心に神に対する畏れがない…。恐ろしい事実は、神はそれを見ているということです。

18節に「不敬虔と不正に対して」とありますが、そこに「あらゆる」と記されています。つまり、パウロは神のさばきには例外がないと言ったのです。「あらゆる」というのは「すべて」ということです。つまり、神はどんな小さな罪でも見逃さないというのです。どんな小さな罪でも容認されないというのです。神がさばかれないような罪は存在していない、だから「あらゆる」と言います。

なぜ、罪人がさばかれるのか、なぜ、罪人は神のさばきを受けるのか、パウロは二つの理由を上げました。「間違った選択ゆえに」、そして「間違った生き方ゆえに」あなたは神のさばきを受けるのだと。次に、パウロはこのさばきが、ただの脅しではない、現実の問題であることを教えます。

☆さばきは確実であり、現実のものである

もう一度18節のみことばを見てください。「神の怒りが天から啓示されているからです。」と言いました。この神の審判、さばきというのが確実に起こることを言うのです。「神の怒り」と記されています。神は罪に対して怒っておられると言うのです。

この「神の怒り」ということばをギリシャ語の辞典で調べると、これは「人間の不従順に対する神の怒り、刑罰である」と記されています。神は人間の不従順を怒っておられると、そのように定義されます。ベーカーの神学辞典を開くと「神の怒りは被造物の邪悪によって呼び起こされる。それゆえ邪悪は神の恵み深い愛を傷つけ、神によってあらかじめ提示されたあわれみを拒否することである。それは神の聖なる怒りを呼び覚ますのだ。」とあります。つまり、人間が神に逆らうから、その罪に対して神は怒りをもっておられる。どんな罪なのか、それは神の恵み深い愛を傷つけ、そして、そのあわれみを拒否することだと言うのです。この神の怒りというのは人間の怒りとは違います。私たちが日ごろ経験する怒りとは違います。なぜなら、人間の怒りは感情的なものです。そして、それはなかなか制御することができません。怒っている人の前に立つ時に、私たちは何も言えません。何を言っても意味がないから、どうするか、その怒りが静まるまで待たなければいけません。そのような罪の怒りのことを言っているのではありません。神の怒りは完全な正しい怒りです。なぜなら、私たちが経験する怒りというのは、非常に利己的な怒りです。自分の思いどおりに物事が進まないと私たちは怒るのです。

自分の気に入らないことがあると怒るのです。自分が傷つくと怒るのです。いかに私たちは利己的な原因によって怒りを引き起こしていることでしょう。神の怒りはそうではありません。

ジョン・マレーという神学者はこう言います。「神の怒りを我々の怒りに頻繁に伴う気まぐれな激情のようなものと考えてはならない。怒りは神の聖さと矛盾するものに対する神の聖なる強い嫌悪である」と。罪はどんな小さな罪でも神の聖いご性質に相反するものです。神はそれを絶対に受け入れることはできないのです。もし、それを認めてしまうと、神が神でなくなってしまう、神が汚れてしまうのです。神はどんな罪も認められないということです。どのように神が罪を憎んでおられるのか、どのように罪を見ておられるのか、そのことを教えてくれているのです。私たちが覚えなければいけないことは、罪に対する神の個人的な反応のことです。罪を徹底的に憎んでおられることです。それが神の怒りだと言っているのです。それほど神は罪を憎む存在なのだと言っているのです。

私たちが考える神とは少し違うのです。私たちが考えたい信じたい神というのは、多少の罪は大目に見てくれる方です。私たちが期待する神は「仕方がないね、みんな罪人なのだから、みんな弱いのだから」と、そのような存在です。でも、それは聖書が語る神ではありません。聖書が語る神はどんな小さな罪でもそれを憎む方です。それに対して怒りを持たれる、それはご自身の聖いご性質に全く相反するもので、受け入れられないと言うのです。私たちが覚えなければいけないのは、そのような神が聖書の中に記されている神だということです。その神が私たちを造られた神です。その神の前に私たちはいつか立つのです。聖い怒り、このような神だとパウロは私たちに教えるのです。

そのことを教えた上で、パウロは「天から啓示されている」と言います。この「神のさばき」を私たちが考える時に、私たちがすぐ思いつくのは、確かに、将来一人ひとりが神の前に立ってさばきを受けるということです。ローマ人への手紙2:5に「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」とあります。つまり、後に必ず神の前で一人ひとりの罪がさばかれることを教えているのです。ですから、神のさばきというと確かに将来的なことです。1:18に「天から啓示されている」と「啓示」ということばがありますが、17節にも同じことばが使われています。17節も18節も現在形です。つまり、17節では神の義が継続的に人々の前に明らかに示されているということでした。この18節では今度は、神の怒りが継続して人々の前に明らかに示され続けていると、パウロはそのように言うのです。

どのように示されるのでしょう?聖書の中を見るならはっきりしています。皆さん、思い出してください。神はこれまで人類の歴史を通して、常に罪をさばいて来られました。

・アダムとエバの時はどうでしたか?彼らはどうしてエデンの園から追放されましたか?罪です。

・先ほども見たように、ノアの洪水はどうして起こりましたか?人々の罪です。

・ソドムとゴモラがどうしてさばかれましたか?それはその人々の罪です。

アブラハムが主の使いと話をしています。ソドムとゴモラを滅ぼすということを聞いた時にアブラハムは「50人正しい人がいたら、それでも神さま、あの町を滅ぼすのですか?」と言います。そう言ったアブラハムはすぐに訂正します。「神さま、45人だったらどうでしょう?」、その後またすぐに「40人だったら滅ぼさないですね。」と… 30人に、20人に、結局、最後は10人になります。しかし、ご存じのように、ソドムとゴモラは滅ぼされました。正しい人は10人もいなかったのです。

・エジプトにおいてもそうでした。捕らわれていたイスラエルの人々を解放せよと言うのに、パロはそれを拒みます。そして、その時に10の様々な災いがエジプトに下りました。それはパロの罪でした。それに対して神のさばきが下ったのです。

ですから、このように聖書を見ることによって、私たちに何が教えられるのでしょう?神は常に人間の罪をさばいて来られたということです。そのメッセージは今も私たちに明らかにされ続けています。この事実は、私たちに神は必ず同じようにこれからもさばきを下されるということを示しています。確かに、将来においてさばきは約束されています。それが事実だと言えるのは、過去において神はそのように罪をさばいて来られたからです。

同時に、ローマ1:24、26,28を見ると、同じことばが使われています。24節には「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、…」と「引き渡され」ということばが出てきます。26節にも「神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。」とあります。28節には「神は彼らを良くない思いに引き渡され、」と、「引き渡される」ということばが3回出て来ました。これは神が彼らを自由にさせる、彼らの勝手にさせるということです。つまり、罪人が神に従うのではなくて、自分の好きなように生きていきたいと望みます。すると、神は「じゃ、そうしなさい」と言われます。これが現在のさばきなのです。

なぜそう言えるのでしょう?一部のクリスチャンたちを除いて、人間はみな自分の好きなように生きています。何のために好きなように生きるでしょう?そうすることによって自分が幸せになると思い、そうすることによって自分が満足すると思うからです。ところが、自分の好きなように生きても、私たちが望んでいるような幸せはあるでしょうか?もし、あれば、この世の中は天国のようなところです。なぜなら、みな好きなように生きて、みな喜び、みな幸せを経験しているからです。

これだけ好きなように生きていながら、私たちの心は荒んでいるのです。幸せを求めて好きなように生きる、神なんか必要ない、「私は好きに生きる!」と生きていて、その結果、みな何を得ているでしょう?空しさを経験します。心配を経験します。不安があります、恐れがあります、苦しみがあります、孤独があります、寂しさがあります。そこには決して本当の満足はありません。それが神のさばきなのです。神は、彼らが神に逆らい続けたから、彼らが求めているそのような祝福を与えようとしないのです。しかも、悲惨なことは、地上において神の約束された祝福を経験しないだけではない、その後に待っているのは永遠の滅びでしかないのです。どれほど哀れな人生でしょう。望んでいるように好きに生きている、思い通りに生きている。ところが悲しいことに、そこには神の祝福はないのです。

☆十字架が私たちに示すことは?

1.罪人は神に背を向けられ、のろわれたものである

この18節のみことばは私たちに、罪を憎んでおられる聖い神が存在するということを明確に教えてくれます。そして、クリスチャンであろうとそうでなかろうと、私たちみなが覚えなければいけないことは、神がどれほど罪を憎んでおられるかということです。なぜなら、クリスチャンがそのことを知ることによって、生き方がもっと変わって行くからです。私たちクリスチャンは罪赦された者として罪を容認しないのです。罪から離れようとします。神が私たちを用いてくださる。私たちが神がどれほど罪を憎んでおられるかを知るために必要なことは、十字架を見ることです。罪のないイエスがあなたの身代わりとして十字架であなたの罪の刑罰を受けてくださった、罪の全くないお方があなたの罪を負って死んでくださった。あのイエス・キリストの十字架を見る時に、イエスはあの十字架上で父なる神から背を向けられました。そして、私たち罪人に代わって、のろわれたものとなってくださった。この事実は、神の恵み、救いを受け入れていない罪人は、神から背を向けられ、そしてのろわれたものにふさわしいさばきを受けるということを意味します。イエスの十字架を見た時に、のろわれたものとして十字架に架かり、私たちの刑罰を受けておられるイエス、その事実は、私たちにこの神の恵みを受け入れていない者は神の前にのろわれたものであるということを明らかにするのです。

2.容赦ない神の審判、さばき

同時に、そこには容赦ないさばきがあります。イエスをごらんになって父なる神には、これはわたしの愛するひとり子だ、だから、その罪をちょっと加減しようとか、少し弱くしようなどということは一切見られません。その愛するひとり子イエス・キリストに対しても、父なる神は厳しい正しい審判を下されました。ということは、あなたが神に逆らい続け、そして、この救いを逃して神の前に立つ時に、あなたを待っているのは、容赦のない神の審判、神のさばきです。みことばはそのことを私たちに明確に教えてくれます。その警告です。だから、これが事実だから、福音のメッセージが必要なのです。このさばきが事実だから、イエス・キリストの十字架と復活には意義があるのです。

だから、私たちはこのメッセージを語り続けなければいけない。なぜなら。神が罪人が救われる方法として唯一与えられたのは、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるという方法だからです。この福音のメッセージです。だから、パウロはそれを誇りそのメッセージを語り続けたのです。

ある人々は思うかもしれなません。神のさばきが約束されていると言うけれども、さばきはないではないかと。みことばはこのように教えます。使徒の働き17:30-31に「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」とあります。神はもう日を決めておられる、さばきの日はもう決まっているというのです。では、今何をしておられるのでしょう?神は忍耐をもって、あなたが罪を悔い改めてこの救いに与ることを待っておられるのです。

Ⅱペテロ3:9に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とあります。ですから、神はなぜさばきを下さないのか?あなたが悔い改めてこの救いに与るのを待っておられるからです。

あなたが自らに問いかけなければいけないことは、なぜ、あなたはその救いを拒み続けるのかです。なぜ、神の備えてくれたすばらしい救いを無視するのかです。みことばはあなたにチャレンジします。この救いを受け入れなさい、この福音によって罪赦されなさい。そうでなければ、あなたは自分の罪の当然の報いをあなた自身に招くことになるからと。どうぞイエス・キリストのところに来てください。イエス・キリストはあなたを招いてくださっています。あなたの罪を赦してくださいます。イエス・キリストの復活が、その十字架が、この福音がその約束です。