聖書からの逸脱 7 「自己受容 4」

■ ありのままで素晴らしい
自己受容や、セルフイメージといったカウンセリングの教えの中でよくでてくるのが「ありのままで素晴らしい」という言葉です。先でも述べましたがセルフイメージの学びの中で「あなたは素晴らしい」と鏡で自分自身に向かって毎日10回は言いなさいと、宿題を課された事もありました。自分という人間を否定的に捉えているならば、それを改善し良いイメージを持つことで自分に自信を持ち、外に対してもうまくコミュニケーションしていける、他の世界を受容できるという概念です。それだけ聞いていると何も悪くない大変素晴らしい一つの考え方のように聞こえてきます。実際私もそう思って大変熱心に学びました。しかしこの事を聖書のみことばに立った信仰を持ってみていくなら、真理から大きく外れた逸脱であることが分かります。バブテスマのヨハネが語ったメッセージからその事を見ていきましょう。

 

そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」 マタイの福音書3:1-12

「悔い改めなさい」とバプテスマのヨハネは言いました。「悔いる」「改める」の意味を調べてみますと次のようになっています。

 

大辞林 第三版の解説: くいる【悔いる】
自分がしてしまったことを,しなければよかったと残念に思う。後悔する。

デジタル大辞泉の解説: あらた・める【改める】
1 新しくする。古いもの、旧来のものを新しいものと入れ替える。「日を―・める」「第一項は次のように―・める」
2 悪い点、不備な点をよいほうへ変える。改善する。「態度を―・める」「悪習を―・める」
3 服装や態度をきちんとする。「居ずまいを―・めて拝聴する」
4 正しいかどうか詳しく調べて確かめる。吟味する。「罪状を―・める」「財布の中身を―・める」
[補説]1~3は「革める」、4は「検める」とも書く。
電話をかけて相手が不在であると「では、改めます」と言う人がいるが、これはおかしい。「では、改めてお電話します(いたします)」と言う方がよい。平成10年代半ば頃からの言い方か。

 

このような意味から、「悔い改める」という言葉の意味をより詳しく表現するなら次のようになるでしょう。「自分がしてしまったことを,しなければよかったと残念に思い後悔し、古い今までの悪い行いをよいほうへ変える、改善する。」となりますし、「改める」の意味の中で興味深く感じるのは4.の「正しいかどうか詳しく調べて確かめる。吟味する。」という意味があります。今までやってきたことが果たして正しいことだったのか、神の御心にかなうものであったのか吟味する、という意味も含まれていることが分かります。

要するに今まで(ありのままの自分)の生き方を改めなさい、これまでの生き方、考え方が正しかったのか吟味しなさい、と言っているのです。しかしながら「イエス様を信じているから、パリサイ人やサドカイ人の人たちに向けられた言葉は私には当てはまらない」と思ってしまうなら、まさにそれこそ『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えになっている状態と言えないでしょうか?聖書はあらゆる所で古い自分を改めることを語っています。

 

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。 詩篇19:12-14

 

ダビデはこのように自分という人間を大変警戒していました。それは、神の御前にいつ罪を犯すかわからない自分という人間の性質、いつ神に裁かれてもおかしくない存在であるという口先だけではない正しい認識を持ち、罪人として汚れた存在としての認識を十分に持っていたからです。そして神を真に恐れ敬う信仰を持っていたからこそ、心から神に従い、自分という人間の罪の性質から離れたいという願いを持っていた事がよく分かります。どうしようもない罪人の私を赦し受け入れて下さるのは神です。自分を赦してくれるのは人でもないし、ましてや「自分自身」であるはずもないし、そのような考え方は非常に馬鹿げた考え方だと思いませんか?無意味です。ダビデの心の態度というのは自分で自分を受け入れるどころか、自分の内側に良い所なんてない、どうしようもない、そんな自分をただただ赦して下さい、受け入れてくださいとひれ伏しているのです。神を恐れる信仰とはこのようなものではないでしょうか。このダビデのように正しく神を畏れ敬う信仰を持つことで、神の偉大さと豊かな憐れみ、愛を深く深く知って行くことができるのです。

人間は、罪の性質を持っています。どうしようもない葛藤がこの肉のからだを持ち続ける限り存在することはパウロもローマ人への手紙の中で語っています。

 

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし自分がしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪なのです。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。 ローマ人への手紙7:15-25

 

このようにパウロも自分の内側にある肉の弱さについて告白しています。そして、大きな葛藤となっていることをはっきりと告白しているのです。では、パウロはその後何と言ったのでしょうか?そんな人間ですが、「そのままで受け入れましょう」「自己受容して、自分を愛し受け入れましょう」と言ったと思いますか?「そのままで素晴らしい」と鏡に向かって言い続けない、とその後の8章で述べたでしょうか?

 

肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいけません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 ローマ人への手紙8:3-16

 

御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 

と言っています。「弱い自分(肉)を受け入れなさい、赦しなさい」とはどこをどう見ても言っていません。それが逸脱している事は明らかです。弱い自分(肉)のゆえにキリストが十字架にかかって、愚かな私の罪のために十字架に架かられ救いを与えて下さった、そのことに感謝をささげることははっきりと書かれています。しかしどうみても、どのような角度から検証しても、「ありのままで素晴らしい」と人間に向かって語られる箇所は、旧約でも新約でも、預言者、使徒、主ご自身のおことばからも受取れる箇所は無いです。むしろそのような自己肯定的な発言、メッセージは聖書の中を見るなら、偽りの預言者によって語られることがほとんどです。というよりそれ以外にはありません。サタン的と言わざるを得ません。あのエバの自己(肉)を肯定した情報と非常に大きく共通している点があります。

 

パウロは11節で「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら」と言っています。「もし」という言葉を使っています。もし、御霊がいないのならどうでしょうか?御霊が住んでおられないのなら、神の御心、みことばが語っていることは理解できるはずがありません。神の民で、選ばれた者であるという認識で「われわれの父はアブラハムだ」と心でパリサイ人たちが言っていたように「私たちはクリスチャンだ」とこころの中で言って神の御心から大きく外れている状態という現実が今の教会にあるように思えてなりません。パウロははっきりと13節で「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」と言っています。

肉に従えば死ぬ。御霊によってからだの行いを殺すなら生きる。そのようにパウロは言っています。

御霊によって生きる、それは救われた者の証です。救われた者がそれをなすことができます。しかしこのパウロが言っていることを理解できない、もしくはゆがめて解釈するのなら、それは逸脱することになりますし神の御心を歩む者ではなく神の真理を曲げる神に敵する肉なる者である、ということを自ら証しているようなものです。

 

偽り、逸脱が一体どのようなものであるか、聖書の中ではあらゆる箇所で語られています。この偽りとの戦いそのものがサタンとそれに属する者、そして神と御霊に歩む者との戦いと言えるでしょう。

 

人はみなユニークに造られています。人それぞれに神の最善のご計画がありますし、他人と比較して「自分は駄目な人間だ」とことさらに自己卑下したり、逆に「あの人よりも、こんなに私は優れている」と自己陶酔や優越感といったもので、一喜一憂するような事は真実ではないと思います。しかし「ありのままで」なんていう曲も盛んに歌われるような時代ですが、同時に個性を尊重するあまり「同性婚」を認める動きであったり、子どもを尊重するあまり正しく教えることのできない親であったり、「ありのままを受け入れる」という大義名分によって生じる様々な非常に大きな問題が社会にうずまいているのが現代社会です。神を正しく恐れ、聖書から逸脱しない生き方こそ人間にとって唯一救われる道、赦しが与えられる、自分という人間を真に受け入れて下さる、唯一の真実なのです。

 

「救われた」という定義、そして、イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」の箇所から引用して説かれる「恵み」に関する逸脱解釈に関しても、聖書から次回以降詳しく調べていきたいと思います。