聖書からの逸脱 8 「恵みと救い」

「救われた」という言葉を以前の教会内でよく私も使い、他の人たちも使っていましたが、振り返ってみて、この「救い」について一体どれだけのことを知っていたのだろうかと思います。 御言葉を何も知らずに「救い」があるでしょうか。聖書で書かれている救いとは何か、聖書から見ていきたいと思います。

 

 

■ 人はどのようにして救われるのか?

だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」そして女に「あなたの罪は赦されています」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」 ルカの福音書7:47-50

イエスは「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」と言われました。ここに出てくる女性は信じる信仰によって神から罪の赦しという恵みに預かることができました。その信仰というのは、イエスこそまことの救い主であり、救う力のあるお方であることを確信し、そして、自分自身がどうしようもない罪人であるという自覚を持っていたことにほかなりません。

 

1.真実な悔い改めの心

この女性は「悔い改めたい」という思い、心を持ってイエス様の所へ来ました。このような心、神の御前に心からへり下る者に対して、神はその豊かな赦しを示して下さいます。

自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 ルカ18:9-14

悔いた心を持って、神の御前に自分の罪を認め、心から御前にひれ伏し救いを求めるなら神は豊かな慈愛をもって受け入れて下さることを、主イエスご自身が表しておられます。表面的な形や外見での判断は一切なさらず、ただその人の信仰、心の態度がどのようなものであるかを神は知っておられ、そしてそれを見ておられるのです。
ローマ人への手紙の中で、パウロは次のように言っています。

では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。 ローマ10:8-13

パウロも心で信じることによって義と認められる、と語っています。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」とも語っています。そして神が恵み深いお方であることも述べています。まさに主イエスはそのようなお方でした。心で信じることについて聖書は様々な箇所で取り上げていますが、創世記の中で神がアブラハムに語られる場面があります。

すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がせなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 創世記15:4-5

 

2.形だけ、見せかけだけの信仰

神はその人の心をご覧になられることがよくわかります。形だけ従っているように見せかけることはできません。本当にその人が神を信じ従って歩みたい、心から悔い改めて神に従って歩みたい、というその思いをご覧になるのです。もし人がそのような悔いた思い、心を持つなら、神はその人に完全な救いを約束して下さるお方です。形だけ従っているように見せかける、「悔い改めているように」見せかけることさえ人はします。教会の人たち、家族、周囲の人に良く見られたいためにそれらを行っている可能性もあるのです。もしくは、「永遠のいのちをもらいたい」「この世における恵み(富)をもらいたい」というご利益宗教的な動機による場合もあるでしょう。神を畏れ敬うという思いは、かけらも持ち合わせていないかもしれません。

さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が ヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。 マタイ3:5-8

「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」とバプテスマのヨハネは言いました。パリサイ人、サドカイ人達の悔い改めが、見せかけだけの悔い改めであったことを見抜いていたのです。礼拝に出ているから祈っているから口で告白したから聖書を読んでいるからバプテスマを受けたから、、、だから私は救われている、なんていうことはできないのです。私たちの心が本当に神の前に正しい心でそれらを行っているのか、そのことを神はご覧になっておられるのです。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 マタイ7:21-23

このような非常に厳しいこともイエス様は言われました。私達は私たちの信仰がどのようなものであるか、形だけになっていないか、出来得る限り「日々」確認していく必要があります。私たちの信仰の歩みを「日々」吟味していく必要があるのです。天におられる父のみこころが何であるかを探し求め続ける必要があります。それは決して何も考えない信仰生活、御言葉に混ぜ物をするような教えの中では決して悟ることのできない事です。

 

3.どのような実?

「悔い改めにふさわしい実」とは一体どのようなものでしょうか。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 ガラテヤ5:22-23

人の外側に、その人がどのような実を結んでいるのか、そのことによってその人の心にあるものがはっきりと分かるとイエス様は語られましたが、同様にガラテヤ人への手紙の中でパウロも外側に表れてくる御霊の実について語っています。上記のガラテヤの箇所にあるような御霊の実を結んでいるのなら、その人は心から神に従いたいという思い、聖霊によって満たされ歩んでることがはっきりと分かるのです。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。 マタイ7:15-20

イエス様ご自身がこのように実によってわかると言われました。内側にあるものが、外側にあらわれてくるのです。肉の思い、自己中心的な思いがあればそのような行いが生まれてきますし、御霊の思い、キリストの心があれば、御霊の実を結ぶことになるのです。

 

4.新しく生まれる

では、御霊はどのように与えられるのでしょうか。御霊によって生まれることについて、イエス様は次のように語られています。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 ヨハネ3:6-8

「水と御霊によって生まれなければ」とあります。神の御前に全て自らの罪を認め、へりくだって悔い改めることが、御霊によって新しく生まれることなのです。その思いというのは、天から与えられる思いであり、キリストの心です。そして御霊によって生まれるのでなければ「神の国を見ることはできない」と言われました。

御霊によって生まれた者が「良い木」なのです。そしてその「良い木」は「良い実」を必ず結びます。教会に来て礼拝に出席し、クリスチャンだと自認して、他の人々からもそのように思われている。しかし、この神が言われている「御霊の実」が無い、どこにも見当たらない場合、どうでしょうか?その人が神の国を見ることができる、救われているとどうして確信を持って言えるでしょうか?

 

5.良い実を結ぶ者となるために

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 ヨハネ15:1-6

「わたしにとどまりなさい。」 とイエス様は言われました。そして私たちは木の一部である「枝」だとも言われています。良い実を結ぶ者となるために、まことのぶどうの木にとどまり続けないといけないのです。まことのぶどうの木から外れる、脱落する、どこかに行く、ならどうなるのか? 投げ捨てられ、枯れ、寄せ集められて、火に投げ込まれ、そして燃やされる、と主イエスは語られました。

まことのぶどうの木に、とどまり続ける、それが良い実を結ぶための絶対条件なのです。もし私達がこのまことのぶどうの木にとどまり続け、良い実を結ぶ枝となるなら、神の平安、神の喜び、神のいのちにあずかる者へ変えられていくのです。これが人に与えられた大いなる神の救い、恵みの御業なのです。