創造 第6日 Part.1

Creation Day 6, Part 1
Genesis 1:24-26 July 11, 1999 90-217
説教者:John MacArthur 師

神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。 

創世記1:24-31

NASAのデルタ2ロケットが1999年6月25日にケープ・カナベラル空軍基地から打ち上げられました。それは宇宙望遠鏡によって宇宙の起源を調査するためですが、それにかかった費用は2億4千万ドル日本円でおよそ200億円かけられました。その200億円かけて調べられて、なお、わからなかったことを、今日、私たちが知ることができます。

世界に広がる嘘

サタンは神の敵です。決して治ることのない嘘つき、偽り者です。そして聖書では偽り者の父と呼んでいます。サタンは神の真理を憎み、この世界を偽りによって支配しています。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。(ローマ1:25)

サタンの偽りは文字通りこの世界の全て人間の知性、知性が働いている「考え」の中に入り込み、全ての科学、全ての哲学、全ての社会学、全ての心理学、といったあらゆる分野に入り込んでいます。

※ 第一の偽り

現代社会に及ぼしている非常に大きな偽りが2つあります。そのうちの一つは、「命は偶然によって生まれた」、です。特定の誰かが、特定の目的をもって、実行に移したわけではなく、目的も理由もなく命は存在しているというのです。主権者という存在はいなくて、力ある創造者はいない、それゆえ、宇宙もまた神によって創造されたのではなく、権威ある創造者である神は、いないと。単なる偶然で存在し、ランダムに、無目的に発生した、という考えに立っています。第一の偽りは「偶然によって存在した」です。

※ 第二の偽り

第二の偽りは、「真理とは相対的なものである(人それぞれ、別々の真理がある)」ということです。聖書は絶対的な神のことばではなく、正しい悪い、命と死、道徳と不道徳、を示す真理ではない、これからも、また、これまでもそうではない。人は皆、絶対的な権威の下にはいない、真理とは相対的なもの、人それぞれに真理がある、ということです。

この2つの大きな偽りを土台にして立っている世の人々は、その偽りに、真向から反対する考えのクリスチャンが嫌いです。ある時は憎まれます。私たちは偶然によって命が存在していると、信じていません。宇宙は一瞬のうちに、神によって造られ、神によって今に至るまで保たれ、神のよって支配(コントロール)されている、と。真理が相対的なもの、人それぞれ別々の真理があるとは信じません。真理とは絶対的なものであり、絶対的な啓示が神によって、みことばを通してなされていると信じています。

「偶然によって存在した」「真理とは相対的なものである(人それぞれ、別々の真理がある)」 この2つの嘘は、同時に、並行的に存在しています。

進化論者は神の創造を否定します。それは聖書の権威、この世界を創造された神が書かれた聖書の権威を否定しているからです。進化論者の中で、神はいるが、しかし神は進化を用いられたという有神的進化論者もいます(アメリカ?)。有神的進化論者や、人文主義的進化論者と呼ばれる人たちなど様々いますが、しかしそれらは根本的全て同じで、結局のところ進化を肯定し、創世記1章の神の御業を否定しているのです。

創世記1章は、神が宇宙を造られたことを断言します。それは絶対的なものであり、たった一つの誤りもない真理です。そして、私たちは「偶然によって存在した」「真理とは相対的なものである(人それぞれ、別々の真理がある)」といったこの2つの大きな嘘が、間違いなく嘘であることを知ることができます。

本当のクリスチャンであるなら、聖書は神のことばであり、神は存在し、みことばによってそのことが明らかにされていると知っています。本当のクリスチャンの考え方は、神は創造者であり、正しい生き方とは何か示し、戒めを与えて下さるお方であり、私たちをとりまく宇宙の働きはすべて神の御手のうちにあり、コントロールされ、聖書はこの神の啓示であり霊的な戒めであるということです。

創世記1章と同様に、出エジプト20章も同じく真理です。そこでは10の戒めが与えられています。同様にイザヤ53章も真理であり、そこではメシヤ、救い主がしもべのような姿をとり受ける苦しみが描かれています。マタイ1章も同様です。そこではメシヤであるイエスがこの世界にマリヤの子として生まれることが書かれています。ヨハネ3章も同様です。そこでは私たちは新しく生まれなければならないことが書かれています。すべて同じように真理です。みことばはどの箇所を見ても全て真理です。

創世記1章を嘘に取り代えようとする働きは、神のみことばに対する反逆です。聖書の真理を曲げようとする働きは、神の裁きをその身に招くことになります。聖書の終わりに書かれていることを見てみましょう。

黙示録22:18
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。
もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

聖書の終わりになされている警告は、この聖書のみことばを変えることへの警告です。みことばに付け加える、もしくは取り除く者は、裁きがその上にあると警告しています。それゆえに私たちはみことばに変更を加える行為は到底考えられない行為であって、信仰に歩む、賢い信仰者がすることではないと、簡単に結論づけることができます。

そのような行為は全く考えられないことであり、唯一考えられるのは、そのような行為をする者は、不敬虔で愚かな未信者のすることであると考えます。彼らはいつもそのようにしてきました。それが彼らの人生で唯一できる方法なのです。みことばの真実に戦いを挑む行為は、神を信じている信仰者にとっては到底考えられないことです。

しかしながら非常に多くのクリスチャンと呼ばれる人々がそのような行為をしています。(1999年代のアメリカ?)彼らは出エジプト20章のモラルを否定しません。イザヤ53章のメシヤが苦しみをうけるという預言者の証を否定しません。イエス・キリストが処女から生まれることを否定しません。福音と新しく生まれることを否定しません。しかし、彼らは創世記1章の明白な教えを否定するのです。

なぜ彼らはそのようなことをするのでしょうか? 命の書または聖なる都からその名を消され、恐るべき神の災いが宣言されている御言葉の呪いの下に自らを置いていることになるのです。

なぜ彼らはみことばを変える(曲げる)ことによって自分をそのような災いの下に置こうとするのでしょうか?聖なる神よりも進化論者を喜ばせたいのでしょうか?人間を賛美、称賛したいのでしょうか?神からの栄誉よりも学問、学歴、学位の評価を求めているのでしょうか?

率直な疑問だと思いませんか?クリスチャンが創世記1章を否定するという事実は考えられないことです。創世記1章のベースになっている、基礎となっているのは神のことばです。しかしサタンは非常に巧妙に彼の嘘である進化論を広めることに完全に成功しました。そして非常に多くの自称クリスチャン(真のクリスチャンからは程遠い)が、創世記1章に書かれている、6~7千年前に24時間×6日でこの宇宙の全てを造られたという非常にまっすぐで単純明快な神のみことばをいとも簡単に否定するのです。

進化論クリスチャン、自称クリスチャンはこ創世記1章を否定しています。

なぜこんなにはっきりと示されているにも関わらず、否定できるのでしょうか?繰り返しますが、サタンは非常に賢く、非常に巧妙で、進化論という嘘を広げることに巨大な成功をおさめています。

化石と人類

進化について考えるとき、多くの場合「人間の進化」について考えます。4本足で動く猿のような生き物のイメージがよく用いられます。そしてそのあとに10枚くらいの段階的なイメージ図である段階で突然4つ足歩行の猿のような生き物が立ち上がり2足歩行を始めます。そして進化論者たちは、このプロセスこそが進化だと言います。

evolve
私たちはこのような人間が猿から人間へ進化する過程を描いたプロセスのイメージ図を、これまでも良く見る機会がありました。全ての学校教育において継続的に教えられているのは、このような「猿からの進化」です。

類人猿
あなたは、彼とさほど変わらない存在ですか?

彼らは化石がそのことを証明していると言うでしょう。しかし事実はそうではありません。それらのほとんどの化石によって騙されています。進化があるという前提で、これらの化石を見るので化石が証拠であるかのような捉え方をしているにすぎません。

John Ankerberg と John Weldonという人物が書いた本「信仰の外へジャンプするダーウィン(Darwin’s Leap of Faith)」で次のように言っています。

―  人類の化石が示す記録が「進化」を全く証明していないし、恐ろしいほどまでに適切ではないにも拘わらず、「進化」は正当化され続けてきました。また130年にわたる調査にも拘わらず、人類と関係があるような説得力のある別の種を見つけることはできませんでした。これらの事実が示すのは、すべて決定的に偽りであるということです。  ―

―  化石によっていっぱい食わされている、としか言いようがありません。  ―

Kathleen J. Reichsという人類学者は次のように言っています。

―  どんなにひいき目で見たとしても、化石に基づいて復元されている人類は、あまりにも少なすぎる骨によって復元されている。  ―

この一人の正直な人類学者はそのように言っているのです。化石は何の証明もしていない、と。進化論が主張する、進化した人間の祖先をたどっていくと大きく3つの段階があります。

ラマピテクス → アウストラロピテクス → ピテカントロプス

これらは猿から人へ進化する過渡期の存在、化石だとされています。平均的なクリスチャン(1999年ごろのアメリカ)は、これらが進化の過程における中間的な形であり、正しい分類方法だと信じているでしょう。

wikipedia-

ラマピテクスの発見
1932年、インドでラマピテクスの下顎の骨が発見された。上顎骨と下顎骨の一部分しかない不完全なものであったが、推定される歯列は放物線形であった。

アウストラロピテクス
1924年11月、南アフリカに住んでいた解剖学者、レイモンド・ダート(Raymond Dart)が、スタークフォンテインの洞窟で人間とも猿ともつかない動物の頭蓋骨を発見

ピテカントロプス
19世紀後半、ドイツの生物学者ヘッケルは、東南アジア方面で人類の進化が起こった事を主張した。ほとんどの学者は無視したが、デュボアはこの説を信じ、軍医となってインドネシアに渡って発掘を行なった。その結果、1891年に脳頭骨と大腿骨を発見し、Pithecanthropus erectus(ピテカントロプス・エレクトス)の学名を与えた。

こんな少ない骨で判断しているのです。簡単に理解できるのは、進化は無いということです。進化を証明することは不可能なのです。しかしなんとかそのことを証明しようとし、希望のない混乱に陥っているのが進化論者たちのやっていることなのです。Richard Leakyという原始人類学者が次のように言っています。

―  私たちは未だに原始の人間に関して、あまりにも大きすぎる推測しかできていない  ―

また、ハーバード大学の社会学者の教授である David Pilbeamは次のように言っています。

―  猿から人間に至るはっきりとした道筋は無く、どうしようもないほどの細い道筋しかない。また人間がチンパンジーやオランウータンやテナガザルから進化したかしなかったか、どちらにしても、化石はいろんな期待を抱かせるには十分だし、様々なストーリーを考えることならできる。  ―

―  私を含めた進化論を学んだ世代というのは闇の中で足をばたばたさせているようなもの。私たちが持っているデータベースは私たちの理論を形作るにはあまりにも薄っぺらいもので、当てにならない。むしろ進化論を学んでいない世代の方がより確かな考えを持っているといわざるを得ない。  ―

私たちはこの世界が6~7千年ほどまに造られたことを知っています。学者たちは長い年月さえあれば、いろんなことが起こり得ると考えます。その考え方が進化論を生み出すことになりました。それで全てのことを何百万年という年月を設定することで解決しようとするのです。あらゆる側面から考えても、進化論は信頼するに足りるものではないです。あらゆる点において、です。

今日、およそ600万年前の化石が人類だと最初の人類の化石だと言われています。600万年前に進化はありませんでした。つまり、それは作り話だったということです。彼らが神に関する知識が無いから、このようなことが起こったのです。

1bpOKr4E

 

真理と偽りを取り代える人間


ローマ1:25
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。

神のみことばの代わりに、嘘(偽り)を真理としたのです。人は神をいらないと言い、そして聖書をいらないと言っているのです。彼らの生活の中に神はいらないし、彼らのモラルの基準に聖書はいらないのです。イエス・キリストとユダヤ人の関係にもそのことが表されています。「私たちはあなたに支配されたくありません」と彼らは言っています。神の支配の下に、いたくはないのです。

詩編14:1(詩編53:1-2)
愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼は腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神に尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

愚か者は「神はいない」と心で、そして口で言うのです。罪を愛し、永遠の地獄という裁きをもたらしうる神の基準は「必要ない」と言っているのです。彼らの欲望は神を取り除きたいという思いでしかありません。なぜ彼らが創世記1章を受け入れないのか。なぜ彼らは明らかな神の創造のしるし(記録)を認めたくないのか。
私が理解できないのは、クリスチャンと自称している人々の中にそのような人たちが存在しているということです。それは全く理解できません。

マラキ2:10
私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか。

「神が、私たちを創造したではないか。」

私たちは皆、神によって創造されたのですよね?この方によって造られ、この方のために造られ、この方によらずに造られたものは無いのです。

人は最も重要な被造物

アダムは、今いるあなたと同じように造られたのです。他の日の創造と同じように24節で神は次のようになされます。

神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

私たちがこれまで学んできた5日間では、人間を取り巻く世界が造られていきました。人間は地上の王です。人間は神が造られた被造物の頂点に立つ存在です。人間以外の全ての被造物は、ただ人間が造られるその時のために造られました。

そして6日目に来ました。この6日目ですべて創造のみわざが完成します。6日目にまず、地に住む動物を造りました。それらは3つのカテゴリーに分かれます。家畜、はうもの、野の獣、です。それは神が人が住んで生きるために準備をして下さった、最後の御手の業でした。人間は神の創造の御業における最も重要な存在でした。神の御心はこの造られた人間を罪から贖うことでした。

すべてこの宇宙は消え去ります。すべてこの宇宙にあるものは存在の外に追い出されます。星は落ち、太陽は消え、月もまたその終わりを迎えます。そのことは黙示録に書かれています。すべての宇宙は巻物のように巻かれ、消え去っていきます。すべての生き物は激しい熱によって溶かされます。何もかもが消え去ります。すべてが存在しなくなります。地の上にあるもの、植物、果実、草、海の生き物、空を飛ぶ生き物、地上の動物、この宇宙にあるすべての生き物は命の終わりを迎え、そして死に絶えます。何もなかった、はじめのころに戻ります。しかし、人間は違います。

人はいわば主人公のようなものであり、全ての被造物はその舞台、劇場のセットで、壮大な神の贖いのストーリーが演じられていき、それは神の御子の花嫁を探し求めていくストーリーであり、そのためにあらゆる恵みと憐れみ、慰め、そして、人を救う力が示されていきます。ですから、人の創造は最も重要なことになります。人間の創造に関する記述は、他の被造物より多くあることを聖書の中から見ていくことができます。
創世記2章はすべてこの最も重要な人の創造に関する記述で、より詳しく描かれています。

カテゴリーに分ける

すこしばかり並行箇所を見ていきましょう。第6日に造られた動物と人は、第3日と対をなしているのです。第6日では地上の生き物が造られました。

第3日では無機質な環境が整ったすぐ後に、地上を植物がおおいました。同じように第6日では、動物が造られ、植物、動物といった命が完全に造られて整った後に、すべての植物、動物を支配する人が造られました。これが第3日と、第6日の並行箇所、一致している部分です。またこれまで学んできたように、

第1日 光 → 第4日 天の大空にある光る物、2つの大きな光る物(星々)

第2日 大空(宇宙?)と水が分かれる → 第5日 水の生き物と大空を飛ぶ鳥

第3日 地が現れる → 第6日 地が生き物を生じる

24節で 「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。」 とありますが、この生き物は地上の動物です。海の動物は第5日に造られました。地上の動物だけがまだ造られていなかったのです。地上の動物を3つのカテゴリーで造られました。しかしこのカテゴリーは現代の分類方法とは一致しません。現代では両生類、爬虫類、そして哺乳類といった感じです。聖書ではたった3つのカテゴリーです。家畜、はうもの、野の獣、です。家畜は人のために飼いならされすことのできる動物のことです。

第一のカテゴリーは家畜ですが、羊や山羊のようなミルクをする動物たちや、乗ることができたり、荷物を載せることのできる動物であったりします。

第二のカテゴリーは、はうものです。勿論すぐに思い浮かぶのは蛇やトカゲです。しかし腹這いで移動する動物は他にもたくさんいます。たとえば昆虫だって腹這いです。へブル人の学者のほとんどはこの箇所は、短い足のすべての生き物を指しているのだと言います。たとえば庭に現れて花を食べていくうさぎのような動物だって当てはまります。

足の短い動物は、へブル人のある学者は腹(胴体)が地面からあまり離れていない生き物、という定義をしています。虫、ネズミ、両生類、などなど、です。レビ記11:29に出てくる動物たちがそれにあたります。

レビ記11:29ー30
地に群生するもののうち、次のものはあなたがたにとって汚れている。すなわち、もぐら、とびねずみ、大とかげの類、やもり、わに、とかげ、すなとかげ、カメレオンである。

もぐらの種類、ねずみの種類、そして爬虫類に近いものたちです。

第3のカテゴリーは「野の獣」です。4本足の動物で、普通は飼いならすことができません。すぐに思い浮かぶのは、ライオン、きりん、象、カバ、虎、といったような人が飼いならすことのできない動物たちです。一般的に言えば、です。しかしインド象のように、人に飼いならすことのできるケースがあります。しかしアフリカ象はそうではありません。一般的に言うならこのような大きな野生の哺乳類は飼いならすことはできません。飼いならすことのできる動物と、飼いならすことのできない動物がいるのです。これが神がされる動物の分類です。人間が勝手に決めた分類とは無関係です。とてもシンプルな自然のルール、きまり、規則、システムなのです。

同時に造られた

もう一つ注目したいのが、これら3つのカテゴリーの動物たちは同時に造られたということです。ある人々は、これは家畜がまず造られ、そして進化してはうものになり、さらに進化して野の獣になったのだと言います。この解釈は非常に大きな問題です。これらの動物は一日のうちに同時に造られたのであり、それぞれ別の種類に進化、変化していくこともないのです。神がこれらの動物を造られたのです。進化もなく、生存競争もなく、突然変異も全てありません。しかしそれぞれの動物における様々な種類の数、バラエティーの豊富さには本当に驚かされるほどに存在します。海の魚だってそうですし、哺乳類だってそうです。本当にいろんな種類の動物たちがいます。そう思いませんか?

さらに発見されている事実としては、すでに数千もの動物のカテゴリーは、既に絶滅しているのです。あなたが見ている動物、虫、獣、はうもの、鳥、海の生き物、それら全てはとてつもない巨大な知性を持っておられる方によってデザインされたのです。24節を見てみますと、「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。」とあります。もしこの箇所を言い換えるなら「地の上に、種類にしたがって生き物が現れよ」といえるかもしれません。

動物のからだを構成する要素(成分)は、地面にあるものと同じ化学成分で出来ています。同じ化学成分によって形作られていて、やがて動物は死ぬと、もう一度、ちりとしてその化学成分は地(土地、地面)に戻っていきます。地(土地、地面)と動物は同じ成分によって作られているのです。

創世記2:7
神である主は土地のちりで人を造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

神は地のちりで人を造りました。ですから土地と同じ化学成分によって動物を造られたのです。

生き物

ここで「生き物」と呼ばれていることに注目しましょう。思い出してほしいとても重要なことがあります。それは11、12節でのことです。植物は「生き物」とは呼ばれていませんでした。そして20節に来て初めて「生き物」を見ることができます。海の生き物と、翼のある鳥です。これらはすべて「生き物」です。

植物は動きません。動物は動き、そして意識があります。これが植物との違いです。あなたは植物を訓練して何かを教えることはできません。理由は、、、それが植物だからです。太陽に向かって伸びていくように、仕向けることはできるかもしれません。しかしそのことだって、本来植物がもっている性質で太陽に向かって命を成長するように元々造られているからにすぎません。植物に何かを訓練して教えようとしても、植物には意識が無いので不可能です。動物は意識があり、動くことができます。植物とは違います。

しかしその意識は自意識とは違います。動物は環境の出来事に反応することはできますが、自分自身が一体どのような存在であるか、といった自意識を持つことはできません。

いしき【意識】

① 物事に気づくこと。また,その心。感知。知覚。 「 -を集中する」 「人の目を-する」  (混濁・無意識などに対して)はっきりした自律的な心の働きがあること。自覚。覚醒。見当識。 「 -を失う」 「 -が残っている」
② 状況・問題のありようなどを自らはっきり知っていること。 「罪の-」
③ 思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。特に対象を認識する心の働き。主観。物質・存在・世界・自然など,客観的なものに対する。現象学では世界を構成する超越論的自我の働き,また唯物論では存在に拘束される観念一般を意識と呼ぶ。  単なる直接的な情意作用や知覚ではなく,自他の在り方自身を察知する明瞭で反省的な心の状態。また,その作用・内容など。自己自身を対象化する対自的・反省的働き,人格あるいは自我による統一・自律,一定水準の明晰(めいせき)さなどによって規定される。自己意識。
④ 感覚器官による眼・耳・鼻・舌・身の五識に対し,心の働き,精神の働きのこと。第六識。

大辞林 第三版の解説

じいしき【自意識】

自分自身についての意識。自我意識。自己意識。 「 -が強い」

じこいしき【自己意識】

自己自身についての意識。真実本来の自己を認識し,自己の本質や限界を知る意識。自覚。自意識。自我意識。

自意識があると自分が一体何者であるのかを知っていて、周囲の環境にも反応することができます。動物達は自意識はないが、意識を持っているのです。そして死ぬと地のちりに戻ります。これが神がなされた創造のみわざの不思議の一つです。

種類にしたがって

「種類にしたがって」 が24、25節では3回繰り返し使われています。何度も聞いてきたことばですが、創世記1章では合計10回繰り返されています。これはそれぞれの動物の種類の数には限度が定められていることを示しています。すべての動物はDNA、染色体、遺伝子によってその種類が定められています。これまで学んできたように、DNAによって種類はコントロールされているのです。犬は犬、馬は馬、イルカはイルカ、蟻は蟻、クモはクモ、カエルはカエル、たくさんの種類はありますが、その種類は完全にコントロールされ、そして種類の数は制限されているのです。

進化論はすべての生命は海から誕生し、そして地上に広がっていったとされています。
進化論では植物も含めてそのように考えられているのですが、創世記1章を見るなら、まず植物が造られ、その後に海の生き物、そして動物たちが造られたことが書かれています。この点も注意しておきたい所です。
一つの種類が別の種類に変化することはありません。それは創世記1章で10回も繰り返し述べられている通り「種類にしたがって」なのです。

「種類にしたがって」「種類にしたがって」「種類にしたがって」「種類にしたがって」

この繰り返して同じことを神が語っておられるのは、神が「進化論を唱える者たち」の存在をあらかじめ知っておられるので、敢えてそのために何度も繰り返して語っておられるようにも思えます。

そのようになった。

24節の終わりには「そのようになった。」とあります。これまでの箇所でも、聞いてきた言葉です。神が何かを命じられ、そのようになった。この言葉もまたとても重要な言葉です。9、11、15、24節で 「そのようになった。」 が出てきます。これは「(状態が)固定化された」という意味を持ちます。しっかりと、永久的に、そこにあり続けることを示しています。

1節で地を造られたとき、「そのようになった。」とは書かれていません。その時、地は巨大な水の下にありました。
これはまだ形が変化する可能性があることを示しています。しかし9節で海とかわいた地を分けられたとき「そのようになった」とあります。ここではじめて永久的に状態が固定化されたことを示しています。

また3節で光を造られたときも「そのようになった。」とは書かれていません。これも同じで、星々や、月、太陽といったものから光が放たれる状態に固定化されるまでは変化する余地が残されているのです。ですから15節では星々、太陽、月が造られた後に「そのようになった。」と永久的に状態が固定化されたことを示しています。

11節では植物が地の上に造られます。そしてその状態はしっかりと固定化され今日に至るまで存在し続けています。15節では月、太陽、星々が造られ、大空に置かれていますが、同じように固定化され今日に至るまでそこにあります。24節では動物が造られて、その状態は永久的に固定化され、これまた同じように今日に至るまで、そこにあり続けています。制限された種類の中で、生き物は今に至るまで存在しています。バリエーションや、いくらかの変化はありますが、本質的に同じ種類の中での話なのです。

非常に良かった。

地上の動物を造られた後に、神が残されたコメントを25節から見てみましょう。基本的に、神はそれを「良し」としています。神はずっとこのように言っておられました。4節では光を「良し」とされ、10節ではかわいた地と海を「良し」とされ、12節では植物を「良し」とされ、18節では天体を「良し」とされ、21節では海の生き物と鳥を「良し」とされ、25節では地上の動物を「良し」とされ、そして最後に人を造ったあとに31節で「非常に良かった」と言われました。

神が造られたすべてのものは良かったのです。不格好な生物ではありませんでした。下等生物(劣った生物)はいなかったのです。生存競争や、自然淘汰もありませんでした。なぜなら神が造られた環境に適応していない生き物はいなかったからです。すべてのものが良かったのです。欠陥のある生き物はいませんでした。下等生物、劣った生物、劣った存在、なんてものはいませんでした。すべてが良かったのです。そして、31節の「非常に良かった。」の箇所からさらに多くのことを知ることができます。

「すべてのものが良かった」という点が重要なポイントです。この時点で世界にはまだ死というものは存在していませんでした。創世記3章で人が罪を犯すまで死は存在していませんでした。地の上にあるものは全て人間のために造られ、人が支配するために造られ、人は地上における王です。

さあ人を造ろう。

神は6日目のはじめの段階ですべての種類の動物を造りました。そして6日目の残りの時に、人を造られます。ここにも重要な要素があるかもしれません。2章ではすべてが明らかにされますが、その箇所は後日見ていきます。
26、27節では少なくとも、非常に簡潔に人の創造について語られています。神の創造のみわざの縮図をこの箇所から見ることができます。

神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

この箇所が創造のみわざにおけるクライマックス、あるいは頂点ともいうべき箇所です。これがすべてが造られた理由でした。神はこれまで同じように「仰せられ」て、「創造された」のです。ことばによって人も造られました。
これは(アメリカでは?)「命令による創造(fiat creation)」と呼ばれています。fiat((権威による)命令、許可、認可)は、ラテン語では「~があれ(~になれ、~とせよ)」という意味があります。神は存在するように語られたのです。

~があれ、~させよ、~になれ、これは私たちが何度も何度も聞いてきました。しかし26節を見るとどうでしょうか?「~があれ」とは言っておられません。「さあ人を造ろう。」 です。これまでなかった新しい言い方になっておられます。とても重要な違いです。とても大きな言葉の変化です。

3、6、9、11、14、20、24では、「~があれ、~させよ、~になれ」といった表現です。そこには感情が入っているようなヘブル語の文法表現はなされていません。心からそれらを喜び、それらを心から必要としているような様子を受け取ることはできません。しかしこの26節では「さあ人を造ろう」、です。

この箇所で神はご自身の特性を明らかにしておられます。神がご自身を個人的にの特性を明らかにされるとき、複数形でご自身を表現されます。ヨハネ1:3では「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。神が創造されたことが言われています。ヨハネ1章ではイエス・キリストがすべてのものを造られたことを言っているのです。

創世記1:2では神の霊について書かれています。三位一体の神が、この創造のみわざに働かれたのです。
「われわれのかたちとして、われわれに似せて。」 とあります。私たちは、おどろくべきことに神に「似せて」造られているのです。これは三位一体の神のご計画でした。三位一体の神の交わりの中に最も重要な被造物が入れられたのです。

この箇所は神が三位一体であることを議論の余地がないほどにはっきりと示しています。三位一体の神について学べることは、新約聖書で明らかにされていきます。新約聖書で三位一体の神学を全て学ぶことができます。しかし、旧約聖書でも三位一体の神が明らかに示されています。

神のコミュニケーション

あなたのうちには旧約聖書のみことばを繰り返し示して下さる聖霊がおられます。あなたの内には神ご自身が住んでおられます。あなたの内には三位一体の交わりがあるのです。「われわれのかたちとして、われわれに似せて。」であったり、また詩編の著者はある箇所で「主は、私の主に仰せられる。(詩編110:1)」と書いていますが、これは疑うことなく父なる神と、御子キリストのコミュニケーションであることが分かります。

旧約聖書の中には三位一体を示すいくつかの聖書箇所があります。詩篇2篇では『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』 とありますが、これは救い主に関する約束、預言です。

旧約聖書にはいくつかの三位一体を示す箇所があります。「あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。(詩篇45:7)」 この箇所もまた、救い主であられるイエス・キリストを示しています。父なる神がイエス・キリストと親しく交わりを持たれている様子が分かります。

このような箇所は他にもいくつかありますが、すべて紹介するのは時間の都合でやりません。この2つの箇所は三位一体を良く示しています。詩篇110篇も良く示しています。「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」 この箇所は新約聖書でイエスが引用された箇所です。あなたは、神であるキリストと親しくコミュニケーションされる父なる神を持っているということになるのです。そういうわけで旧約聖書は三位一体を示している箇所があるのです。このことに関する知識はとても重要な知識です。しかしながら三位一体の完全な知識は新約聖書によって明らかにされます。なぜ私たちは三位一体を理解しないといけないのでしょうか? それは、神の第二位格である方は、人の姿となられたからです。

どのようにして神がこの世界にいたことを知ることができるのですか?」 と言う質問があります。そのことを知ることができる方法はたった一つだけ、聖書だけです。聖書が何について書かれているのか、私が知っていることは「贖い」についてです。地はすでに形造られ、そして聖書によるなら黙示録13:8、黙示録17:8を見るとわかりますが、私たちの名が小羊のいのちの書に記されていることが分かります。いつその名が書かれたでしょうか? 「世の初めから」です。すなわちこの天地が形造られる前に、なのです。よろしいでしょうか?

私たちは、人やこの世界が形造られる前に何かしら交わり、コミュニケーションがあったことについて、いくらかのことを知ることができます。神のいのちの書に名が記されたことはわかりりました。誰の名ですか? 「私」のです。「あなた」のです。もしあなたが信仰者であるなら、ですが。エペソ1章によるなら「神は私たちを世界の基が置かれる前から」定められていました。

世界が造られる前にあった交わり、コミュニケーションは何についてのコミュニケーションであったのかも知ることができます。それは三位一体の神による贖いのみわざについてなのです。神のご計画はすでに明らかにされました。神はその御子を完璧な愛で愛しておられました。神は御子にご自身の愛を示すことを望んでおられました。その愛は完璧な場所に表されました。

神は御子を完璧な愛で愛されました。御子にその愛を示すことを望んでおられましたが、その愛は第二位格であられる神への愛でした。そしてその愛を示されるのにおどろくべき方法によって示すことを定めたのです。神の御子のために「花嫁」を備えようと定めたのです。御子の花嫁、すなわち御子が贖われる人間によって御子ご自身が、永遠にほめたたえられ、崇められ、礼拝され、仕えられるように定めたのです。そして文字通り、御子はこの贖われた人間を、三位一体の神が住まれる栄光の天にまで引き上げ、そして永遠にそこに住まわせることを定めたのです。これが神のご計画です。

この世界の全てが神を明らかにしている

天と地とそのほかすべてのものが造られたのは、神の御心が明らかにされるためでした。「すべての生き物が本当に必要だったのでしょうか?」とあなたは言うかもしれません。もちろん、すべての生き物が必要でした。なぜならそれらを通してどれほど神が偉大で、栄光に満ち、力あるお方であるか、人間に悟らせるためなのです。天は何を語っていますか? 神の栄光です。(詩篇19) この世界の土台になっているものは、神の御手のわざを示しています。ローマ1章が言うのは、目に見える自然が明らかに示しているのは、目に見えない神がおられることであり、その神に逆らう者たちに弁解の余地はないということです。すべてのものが神を明らかにしているのです。

全ての被造物を私たちが見るとき、その中に、神の力、神の知性、神の知恵、神の愛の美しさ、驚くべき神の御心、驚くべき神の知恵、それらを見ることができるのです。神のやさしさ、慈しみ、ご配慮、繊細さを一つの花の一つの花びらに見ることができます。稲妻にある光の輝き、そして何十億という銀河の巨大な宇宙の中を駆け抜ける光の輝きに神の御力を見ることができます。これらの中に神についての非常に多くのことを見ることができます。これらすべてが神を表しているのです。

しかし神がご自身を表される最も驚くべき方法というのは「罪人を救う神の愛」です。神の恵み、神の哀れみ、神の赦し、神の慈しみ、神のやさしさ、それらは「罪人」がいなければ決してあらわすことができないものです。この世界の基が造られるまえに、神のご計画はすでにあったのです。第Ⅱテモテ1:9では「この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって」とあります。まず初めに人を創造されるのがご計画であり、そして、贖われた人としての栄光を与えるのがご計画なのです。

同じころに御使いも創造されたことがわかりますし、その目的は神の栄光のためでした。しかし神の恵み、慈しみ、赦しは御使いにあらわされてはいません。御使いに救いは与えられていないのです。御使いは聖いか、もしくは堕落しているか、のどちらかです。しかもその堕落は決して直すことのできないものであり、火の池に投げ込まれるものです。天地が造られる前のある時点で、神は罪人を救おうとお考えになりました。人間を救おうと考えられたのです。人を造ろうと考えられ、そして、人を救おうと考えられたのです。さらにその人間に栄光を与え、御子の花嫁にすることを決められました。人が御子に仕え、愛し、崇め、永遠にほめたたえるために。ハレルヤという歌声と共に、文字通り永遠に天に住まうことを人間は許されるのです。

ここに三位一体の議論があります。驚くべき神のご計画、目的があります。神にとって私たちやその他の被造物が、神にとってなくてはならない存在ではありません。しかし神はそれらをお造りになりました。この被造物のすべてが神を明らかにしています。ヨハネ6:37に次のように書かれています。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」 人間を神はお造りになり、そして御子にすべて人間を与えようと考えられたのです。

そして神はこの世界が造られる前に、御子に与えようと決めた人をあらかじめいのちの書にその名を記されたのです。私たちがどのような運命をたどるかはこの世界が始まる前にもうすでに決められていたのです。神の交わり、コミュニケーションがその時にあったことがわかります。「われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(26節) この箇所は三位一体の神がご計画されたまさにその時であったと思いませんか? この箇所が第6日のクライマックスとも言うべき箇所です。

「さあ人を造ろう。」 でした。「人よあれ。」ではなかったのです。「~よあれ」といった表現は感情が入っているような印象は受けません。神はここでとてもご自身の感情を表され、永遠に生きることになる存在を造ろうとされたのです。この存在は天国においても地獄においても、永遠に神に栄光をもたらす存在となります。「さあ人を造ろう。」 ここが頂点です。神はとてもとても感情を込められました。

私たちがどのような者であるかという事実もまた、大変驚くべき事柄です。27節を思い出してほしいのですが、「神はご自身のかたちとして創造された。」 のです。「さあ人を造ろう」 と言われ、そして人を造られたのですが、何によって造ったのでしょうか。土地のちりからです。私たちは、私たち以外の被造物と同じ成分によって造られているのです。私たちはみな同じ材料によって造られているのです。そのために体はいつかは分解され、そしてちりに戻っていくのです。ちりはちりに帰るのです。

そして神は人の鼻にいのちの息を吹き込まれ、人は生き物、生きる存在となりました。その他の生き物と同じように、意識があり、動くことができる生き物となったのです。あなたの体は、他の生き物と同じ原材料によって構成されています。思い出してほしいのですが、あなたの体のほとんどを構成しているのは何でしたか? 何もないのです。90パーセントは何もないのです。なぜなら原子の構成は99パーセントは何もないからです。

そして動物のからだは同じ原子という原材料によって造られています。多くの動物たちと同じようにあなたもいのちの息を与えれています。動くことができ、意識があるという点で、あなたは生き物として造られました。創世記7:22では、動物は鼻が「いのちの霊の息」となっています。

これは2:7において私たちのからだの造りについてシンプルに語られています。私たちはちりによって造られました。私たち人間とその他の動物は同じ原子によって造られ、他の動物と同じように意識があります。しかし大きな違いがここにあります。私たちは神のかたちに似せて造られたのです。

20160514

 

※ ジョン・マッカーサー師のメッセージを翻訳したのですが、私の英語力では非常に難しい点が多々あります。実際の表現とは違う間違っている箇所はあるかと思いますが、どうぞご容赦下さい。

 

▶ 聖書に関する疑問、質問、或いは翻訳に関する間違いの指摘など受け付けております。お気軽にinfo@lifeword.bizまでメールなさって下さい。