創造 第6日 Part.2

Creation Day 6, Part 2
Genesis 1:6-8 May 2, 1999 90-213
説教者:John MacArthur 師

神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。 創世記1:24-31

今日もまた第6日について学んでいきます。この学びは本当に素晴らしい時間となりました。この学びのしめくくりとして、これまで学んだ創造のみわざについて内容をまとめていきたいと思います。そして創世記1章、神の創造について内容を十分に把握していきましょう。神の創造のみわざにおける頂点は、「人の創造」でした。

進化はなかった

これ以上ないくらいにストレートに語られています。第6日にあったことがあなたに語っておられるのです。地の上に動物を造りました。それらは3つのカテゴリーに分けられ、私たちはそれを見ることができますが、家畜、野の獣、はうもの、といった動物たちです。そこで、動物のいのちを造られ、その前の日には空の鳥、海の生き物が造られました。人間以外のすべての創造のみわざが完成されていたのです。26、27節で人間を造りその創造のみわざを終えられました。これが神が第6日になされた全てです。31節を見ると「夕があり、朝があった」とありますが、それは本当に24時間で終わったことも分かります。光の区間と、闇の区間が示すもの、それは地球の回転を示しています。

神の敵となる存在は、これら神が示す啓示、聖書のことばを否定します。彼らが主張するのは、何百万年、何億年という歳月をかけて人間は進化し、突然変異によって現在の姿になったというのです。今いる人は、偶然による遺伝子の突然変異の結果によると考えるのです。また生存競争、自然淘汰に生き残った結果だとも言います。しかしそれは神のみことばが言っていることではありません。先ほど読んだ聖書箇所はこれ以上ないくらいにはっきりと書かれています。それは2章7節でも繰り返し言われていることなのです。 「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生き物となった。」

そして19節では、「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」 そして人はすべての家畜、すべての鳥、すべての野の獣に名前を与えたのですが、アダムは彼にちょうど良い助け手を見つけることはできませんでした。それで神は人を深い眠りに陥らせました。アダムからあばら骨を取り、それによってひとりの女を造りました。これが女の創造です。男の時と同じように、女の創造は、瞬時的に、神のみてのわざによって直接行われたのです。

創世記5章は次のように始まります。「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。」 繰り返し言われているのは、神が人を女と男とに造られたということです。これが聖書が言っていることです。イザヤ45:12では「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。」ヨブ記33:4では、「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。」申命記4:32でも言われています。このようにたった一つの聖書箇所ではなくいくつもの箇所で神の御手のわざについて語られています。

このようにはっきりと聖書のみことばによって語られ、教えられているにも関わらず、進化論者や、自称クリスチャンの有神進化論者たちは神が進化を起こされ人が存在するようになったと主張するのです。これらの進化論者は神のこの明白なみことばによる証、一日で人が造られたという証に対して反逆し、なんとかして人が進化したことを証明しようとし、すべての生物は一つの生物から水の中より始まったことを証明しようとし、やがて両生類になり、類人猿になり、ついに被造物の頂点にたつ二足歩行をする人となったと主張するのです。しかしながら科学者は聖書を否定しますが、どのようなものを持ってしても進化を証明することなどできません。人の進化も勿論証明できるはずがありません。

なぜなら彼らはどこを探しても証拠となるものを見つけることができないからです。何も起こっていないので、あなたもどんな証拠を探すこともできません。進化は起こったことなどありませんし、それは進化論者たちがどんな証拠を見つけることができないことから分かります。24時間×6日で神はこの宇宙のすべてを造り、すべての生き物を造りました。それはおよそ6~7千年前(※アダムからイエス・キリストまでの系図、生きた年齢が書かれていて、第一日から今に至るまでのおよその年数を計算できます。)に行われたのです。

証拠がないということについて、これまで化石のことを取り上げいろいろ調べてきました。小学校、中学校、高校、大学と教えられてきたのは、化石が証明しているのは、四足歩行の類人猿から人は進化したのだということです。どのようにして私たちは、この「化石が進化を証明している」という考えに向かいあえばよいのでしょうか?科学者は化石と進化の関連づけを誤っていないのでしょうか?科学者たちは例年のように類人猿の化石をみつけたと主張し続けています。彼らは、それらの化石についての関連づけを間違っていないのでしょうか? 答えは「絶対に間違っている」です。完全な間違い、誤りです。

最も興味深い科学雑誌「始まり(Beginnig)」はでウォルター・ブラウンというマサチューセッツ工科大学の博士によって書かれました。21年間、ウォルター・ブラウンは航空戦争大学の科学技術部門の主任であり、空軍士官学校の教授でした。彼は様々な機会を用いて進化論の誤りを暴露してきました。化石が類人猿というとんでもない大げさな表現がなされていることについて彼は書いています。例えば、よく知られているのはピルトダウン人の化石は捏造されていた事です。しかしそれにも関わらず40年以上たった今に至るまで教科書に掲載されています。

1978年より以前においては、ラマピテクスの証拠としての化石は、手のひらにわずかにのるほどの歯の化石と、顎の化石だけで全体像が構成されてしまったことです。それにもかかわらずラマピテクスは類人猿における最も大きなカテゴリーの一つとなっています。私たちはそれらは本当にわずかな歯と顎のかけらにすぎないことを知っています。今では、ラマピテクスは単なる猿にすぎなかったことが知られています。最初の人だと思われていたラマピテクスは、その地位から引きずり降ろされました。それはとんでもない大ぼらだったというわけです。今、私たちが信じ、そして科学者たちが信じているのはラマピテクスは絶滅したオランウータンの一種だということであり、それ以上のものではないということです。ロジャー・ルーウィンによる「骨論争」にとても興味深いことが書かれています。そのことについては先週、私が言及しました。

もう一つ代表的な捏造された原始人がネブラスカ人です。「豚の歯」によってネブラスカ人は原子の人類だと言われてきたのです。とんでもない飛躍です。最も有名な北京原人の骨は人が食べた後の骨を用いて構成されていると、多くの専門家たちによって考えられています。ホモエレクトスという分類も、その時代にいたのではないとほとんどの専門家は考えています。肢の骨だと初めて確認されたホモハビリスの化石は、最近発見されました。それらが示すのは猿のような形であり、人のようではないということです。

■ 神に似せて造られた人間

ルイス・マーキー、メアリー・マーキーによって、そのほとんどの骨が南アフリカで発見され世に知られるようになった、先週、私が言及したアウストラロピテクスは、人間とはほど遠い存在でした。アウストラロピテクスは、人間と猿の中間的存在ではないことが、その体の構造をコンピューターを活用した研究によって示されています。さらなる研究により、彼らの内耳の骨は著しくチンパンジーやゴリラに類似しているものであり、人間のそれとは決定的に違うことが分かりました。重さは60ポンド(およそ27kg)で、手は長い「ルーシー」と呼ばれた人間のように直立歩行で歩くアウストラロピテクスの証拠とされた化石がありました。しかし解剖学の研究によりルーシーの膝関節はそのように直立歩行できるようなものではないことも示されています。ルーシーはあなたに話しかけることは嫌がって、木にぶら下がってだけいたいのです。

この100年ほどの間、ネアンデルタール人は前かがみになって類人猿のようだと信じられてきました。しかし最近の研究によるとその誤った確信はネアンデルタール人の骨は関節病やくる病が土台になっているのだということも分かってきました。ネアンデルタール人、ハイデルベルグ人、クロマニヨン人、は完全に人間でした。芸術家が描くかれらの描写は、本当に肉付きがよいもので、全くの創造の産物以外の何物でもなく、進化の証拠とはなり得ません。しょうもない、とはこのことです。

さらにこれらについて私たちが言えるのは、進化論者たちの年代をつける方法があまりにも大きな間違いによるものであり、基準となる伝統的な方法すら持っていなくて、進化論を証明するものは何も持っていないのです。人間が進化した証拠はなく、そのために彼らは進化を証明するのに非常に困難を覚えていますが、それはどうしてかというと、進化は起こっていなかったからなのです。彼らは進化を証明することができません。

私たちに与えられた聖書には何が起こったのかが記録されています。創世記1章に戻ってみましょう。第6日は地上の動物に関する創造が、特徴的な点です。家畜、それは先日述べたとおりで、飼いならすことのできる動物です。はうものは、地上に近く低い動物です。野の獣は、4本足で、飼いならすことはできない動物です。これらが創造された後に、26、27節で、人間の創造を見ることができます。人間の創造もまた即座に行われたことがわかります。神は、偉大で途方もない迅速さをもって、人が存在するようにされました。完全に成熟した成人としてのアダムを造られたことが2章で示され、その後に助け手であるエバ(イブ)もまた成熟した成人として造られました。

すべての神の創造のみわざは、人の創造ためであり、人が生きるため、人が神の祝福を楽しむためであり、そのことによって神に感謝し、すべての創造者である神がほめたたえるためでした。すべての造られたいのちはすばらしいものでした。神はそれらを良かったと言われましたが、人のような複雑で入り組み、そして途方もない存在は他にいませんでした。人間の非常にすばらしい特質というのは自然界にあるいかなるプロセスでも到底到達しえない大きな隔たりがあります。何物も人間のようになることはできません。何も、です。魚も、海のすべての哺乳類も、はうものも、猿も、類人猿も、ゴリラも、どんな生き物も人間になることはできません。そのことはこれまで何度も何度も学んできました。DNAの遺伝子情報にはそれが不可能であることを証明しています。

しかしどんなに研究を重ねても見つけることのできない構成要素がDNAの中には含まれています。非常に不思議でミステリアスな構成要素が26節の神のことばで次のように紹介されています。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』」 そして27節では「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」 創世記5:1でも、「神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。」 これは、人間固有のアイデンティティーです。この事実は遺伝情報から差し引くことのできない人間の構成要素の一つであり、ミステリアスで霊的な人間の構成要素であり、試験管には決して入れることのできない事柄です。この構成要素は突然変異によって別の存在になることもできません。その構成要素とは「神の形」のことです。

26節は「神は仰せられた。」で始まり、27節では「創造された。」となっています。これは決まった形になっています。神が語られ、そして神が創造される。これらは同じ意味を持っています。神が「そのようになれ」と言うと、そうなるのです。この箇所だけは違います。とても重要な違いです。初めの言葉に変化が起こっています。これまで使われてこなかった言葉とは次のようなもので、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」神はご自身をそれまでは複数形では表されませんでした。いつも「そのようになれ、そのようになれ、そのようになれ」でした。感情を交えないものでした。これまでの創造では感情的なものを表してはこなかったのです。これはとても重要なことなので、理解しておく必要があります。

これまでの言葉は非感情的なものです。そのようになれ、そのようになった。神は存在するように語られ、それが創造され、しかしその中には感情的なものを見つけることはできず、光も、水も、その他のどんな要素も、太陽も、月も、星々も、宇宙も、地球も、水を分けたときも、そうでした。神は個人的な関係をそれらと持とうとはされませんでした。鳥でも、海の生き物でも、地の獣でも、そうです。神がご自身の感情を表される個人的な関係を持てる存在はいません。神と個人的なつながりのある鳥なんてどこにもいません。

神の交わり(三位一体の神)

神と個人的な関係のある生き物はいません。この箇所にくるまでは、です。この箇所では、神は個人的なものを示そうとされ、そのような語りかけをします。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」そして神は聖書の中で初めて、ご自身をその関係の中で明らかにされます、注意して聞いていて下さい。この箇所までは神は、神でした。しかし今、神は、神ご自身が明らかにされたように複数形です。「われわれ」となっています。神の本性を私たちに明らかにされています。この表現は一人以上の時にだけ使える表現です。ここで初めて三位一体の神が表されており、神という表現が複数形になることがその手掛かりになります。はっきりとそのことは示されています。

この箇所で突然、神がお一人以上であることが示され、三位一体であることを次のみことばから示されました。「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」 突然に神の生きた偉大な実行力のある委員会の存在を知ることになりました。それは実行力、行動力のある生きた評議会のようです。1:2でもいくらかのヒントを得ることができます。神の創造のはじめである1節と、そして2節で神の霊が水の上を動いていることが示されました。新約聖書のヨハネの福音書で、神の創造について説明されています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」この箇所が示すのは、三位一体の神の第二位格はイエス・キリストであるということです。

私たちはここでイエス・キリストを紹介されているのです。すべてのものは彼によって造られたこと、彼によらずに造られたものはないということです。ヨハネ1章で三位一体の神の第二位格を見ることができ、ことばが人となって来られ(ヨハネ1:14)、真実その方は創造者なのです。創世記1章で創造者である神をみることができます。創造のみわざの中で神の霊をみていくことができます。ヨハネ1章にでてくる神の創造性の中で、神の御子あるいは、ことばである神、人となった神を見ていくことができます。ここで紹介されているのは、神は複数の位格をもっていて、みことばの証から神が三位一体のお方であることを知ることができます。

非常に重要な神の関係性、交わりについても紹介されています。ここで神は感情の入らない命令「そのようになれ」を用いることはしませんでした。神がここで使われた言葉は明らかに複数のコミュニケーションが明らかにされている言葉でした。この創造のみわざにおいて、神は交わりのなかにおられたことが証されています。このことはぜひ知っておいて頂きたいです。このことは明らかに示されており、間違えようがなく、議論の余地もなく三位一体(※神は本質的におひとりであるが、3つの人格・位格をもっておられるという神学用語)を示しています。明らかな三位一体を示していますが、新約聖書にて完全に示される内容についてはこの時はまだ示されていません。この箇所では三位一体の第三位格、すなわち、聖霊によるペンテコステの力ある働きは明らかにされません。しかしこの三位一体の教えの種はここですでに植えられています。

創世記第一章だけで、三位一体の神について話すのはおおげさだと言えるでしょう。それはおおげさでしょう。B. B. Warfield,という素晴らしいプリンストン神学者が次のように書いています。「神の御子がその贖いをなし、聖霊が遣わされる時がくるまで、三位一体の神の完全な啓示は示されていないといえる。」それは間違いなく、その通りです。イエス・キリストが来られ、聖霊が来られるまで人には三位一体の神の全てをしることはできなかったのです。

ですからこのシンプルな聖書箇所で、三位一体の神の最も重要な部分を知ることはできませんが、イエス・キリストが人となって来られらことを学び、そして聖霊が遣わされることを学んだ後でこの箇所にもう一度戻ってきて見るなら、非常に豊かな学びをすることになり、多くのことを知ることができます。

旧約聖書全体を通してみることができる、あるいは言及されていることは、三位一体の神の交わりなのです。例えば詩篇2:7で詩編の著者は次のように書いています。「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』」ここで述べられているのは、父なる神が三位一体の第二位格である御子とコミュニケーションしておられることであり、これは勿論、キリストが人となって来られることの預言であり、へブル1章で引用されていることです。

詩篇45:7でも父なる神がもう一度御子に話をされている箇所があります。「それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」 へブル人への手紙は三位一体の第二位格である御子に関して語られています。ここでも父と御子と交わりを見ることができます。さらによく知られているのは詩篇110:1で、直接的な神のコミュニケーションがそこにはあります。「主(父なる神)は、私の主(御子)に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」これは救い主の預言として新約聖書(マタイ22:44など)で引用されています。

イザヤ48:16でも、同じような箇所を見ることができ、三位一体の神の交わりがあります。しかしながらもい一度言いますが、神が人となって来られるまでは第二位格の神についてすべてを知ることはできませんし、使徒の働きににおいて聖霊が来られるまでは、聖霊と呼ばれる第三位格の神についてすべてを知ることはできません。では、創世記に戻って神が示されておられるのは、ご自身の関係性についてです。完全な関係性にあるお方なのです。もう少し掘り下げて考えてみます。26節で、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」創造のみわざにおいて三位一体の神のすべてが関係していることが分かります。三位一体の神すべてがこの「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」という働きに共に働かれたのです。そして27節で「神は人をご自身のかたちとして創造された。」のです。

27節で神はお一人だということができますし、26節では神はお一人以上の方だということもできます。神はお一人であり、3つのご人格を持っておられることを私たちは知っています。ここで見ることができるのは、人の創造における働きという目的のための、三位一体の神すべてで構成される会議(ミーティング、評議会)があるということなのです。

創造の前にあった、神の御計画

ここで少し立ち止まらなければなりません。もし私がみことばに忠実でないなら、忠実になるべきです。この数年間、私は神の世の始まる前からあるご計画は、御子に花嫁を与えるためであると紹介してきました。神は御子にご自身の愛を示されるため、御子の花嫁、すなわち贖われた人間をお与えになり、人間はとこしえまでも御子を崇め、ほめたたえ、仕えるための存在です。この永遠のご計画は三位一体の神における会議(評議会)において示されたのです。

ここはとても重要なポイントなので、しばらく考えるための時間をあげます。とても重要です。第一ペテロ1:20において次のように書かれています。「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」 イエスはあなたのためにこの終わりに時代に現れ、十字架にかかるため、そしてよみがえるため、あなたの救い主になるためなのです。イエスはこの終わりの時代に現れましたが、それは世の始まる前から計画されたものでした。ですから創世記1章の出来事の前に、第一日の創造の前、明らかにされた創造のみわざがなされる一週間の前に、主の贖いはすでにご計画されたいたのです。よろしいでしょうか? 言い方をかえるなら、人類をお造りになる前に神は贖いの計画をされ、そして救い出すことをあらかじめご計画されたのです。神の贖いのご計画がまず始めにあったのです。

さらに学んでいくなら、テトス1:1-2で少し福音について言及しています、「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ―私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。」パウロのアイデンティティがここにあり、彼は信仰のために神に選ばれたと言っています。それは選ばれた信仰による救いです。敬虔にふさわしい真理の知識、永遠のいのちの望み、そうです、彼は福音について話しているのです。福音は信仰が含まれるし、選びも含まれ、真理の知識も必要であり、敬虔も欠かせず、福音は永遠のいのちの望みもまた含むことになります。

しかし気を付けて頂きたいのは次のポイントです。神の救いの目的は、神の救いの最大の目的、偽ることのない神の約束である救いは神ご自身のためであり、それはいつ約束されましたか? 古い昔です。ギリシャ語の原語が意味しているのは「時が始まる前」です。では、いつ時が始まったのでしょうか?時間はいつ始まりましたか? 第一日です。ですから、第一日の前、なのです。その時、神はすでに福音のご計画をされていたのです。そしてそれは福音の要素であり、この福音は古い昔に約束されたものなのです。神は選びを約束され、彼らの信仰を授けようとされ、彼らに真理の知識を与えようとされ、敬虔を与えようとされ、永遠のいのちを授けようとされました。神はそれを第一日の前に約束されたのです。では、ここで疑問が生じます。だれと約束されたのでしょうか?

人間と約束することはできません。第6日まで人間は造られていなかったからです。御使いと約束することもできません。以前にお話ししたように、御使いは全ての被造物が造られたとき、同じころに造られました。私たちには御使いがいつ造られたのか正確に知ることはできません。しかし、神は確かに天の御使いとは約束しておられません、なぜなら、御使いは救いを経験することがないからです。御使いが救われますか?神は御使いと約束しなかったのです。罪を犯した御使いは天から永遠に落とされ、御使いへの救いはないのです。では一体だれと、時間が始まる前に、神はこの約束をされたのでしょうか?

第二テモテ1:9を見てみましょう。ここでより深く学ぶことができます。この箇所で神が言われているのは、「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって」とあります。テトス1:2でも全く同じような訳を見ることができます。これらは遠い昔に説明されたものです。それは永遠の昔に説明されたものです。時間が始まる前に、なのです。ここから始まりました。テトス1:2のように時間が始まる前に神が約束をされたのです。ここで言われているのは、神はイエス・キリストに関する約束を時間の始まる前に持っておられたということです。

ですから時間の始まる前に神は約束されました。神は約束をされ、ご自身が造られたある生き物を贖うことを決められ、イエス・キリストによってやがて贖われるということです。神は三位一体の神の第二位格と、人となる必要、この世界の入口(門)になる必要、罪のいけにえになる必要、これらすべてについて話す必要があったに違いありません。それは全て時間が始まる前に、なのです。10節では、「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅し、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。」それでは創世記1章の以前について考えてみましょう。時間の始まる前、地の基が造られる前、生き物が存在する前、神の評議会があったその時です。

そのご計画というのは、救われるべき被造物である人間が、やがて三位一体の神の第二位格である方が人となって来られ、そして贖いのみわざをなさることによって贖われ、天の栄光に引き上げられることなのです。三位一体の神の第三位格である聖霊がなされる救いの働きを、新約聖書の中で私たちはさらに詳しく知ることができます。聖霊は心の中にある罪を認めさせ、義や裁きとは何かを示し、真理とは何かを彼らの心に明らかにさせ、新しく造り変え、新しく生まれさせ、そして勿論、これは重要なポイントですが死から命へと移り、神の所有とされるのです。これらの全てを経験するのは、時間の始まる前に神によって選ばれた人々なのです。

エペソ1:3で神の目的について次のように記されています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」どうしてでしょうか? 「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選んだから」なのです。時間が始まる前に明らかにされた神の定めは、すべてのものが造られる前の出来事でした。そしてその事は三位一体の神によって決められたことでした。第4節で言われているのは、神は私たちをあらかじめ定められていたのです。神はただ神の御心によってその事を定められたのです。

創造した目的

ではこのご計画はどこへ行きつくのでしょうか? ヨハネ6:39で次のように書かれています。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」 ヨハネ17章でも繰り返し語られています。イエスは父がご自身に与えられた者たちについて言及されています。思い出しましたか?イエスは6:44で「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることができません。」と言われ、「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく」と言われました。 ヨハネ17:24で「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」 イエスは、父がイエスにお与えになった信じた者たちについて祈られ、この神のご計画が始まったはじめのころについて祈られています。父なる神は御子にご自身の愛を示されようとされました。その愛は、何ものも及ばない、この地上にはない、至上の愛、神の愛です。神だけが知っておられる愛です。

この偉大な愛は与えようと望まれていたもので、人を造り、贖い、栄光を与え、キリストに似たものにすることによってその愛を表そうと神は決められました。ピリピ3:21で「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」とあります。第一ヨハネ3:でも、「私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」とあります。そして父なる神は私たちを文字通り、キリストっを鏡のように映し出す者、似た者、栄光を輝かせる者にしようされていて、私たちはイエスを賛美し、褒めたたえ、栄光を帰し、永遠から永遠までイエスに仕えるのです。それは父なる神の御子への愛です。

この驚くべきストーリー、これまで話してきたのは、第一コリント15章では次のように言っています、御子が贖われた人間を父からお受けになるとき、彼らは神の栄光に引き上げられ、私たちは神の御前にいることになり、時間の概念はもうなく、私たちは父なる神によって御子に与えられ、その時、人間の贖い、救いのみわざは完成し、第一コリント15章が示すのは「しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」なのです。そしてついには、全ての贖われた人間と、聖なる御使いが新しい天において、栄光を受けるにふさわしい、父なる神の栄光、御子の栄光、聖霊の栄光を永遠までもほめたたえていき、それ以外の目的はないのです。
このことは黙示録13、17章と2度出てきます。13:8、17:8も同じことを言っています。これらの箇所では世界の基の置かれる前にいのちの所に名が記されている者たちついて書かれています。世界の置かれる前、にこれらの箇所は私たちを引き戻してくれるのですが、それでは、もう一度、創世記1章に戻ってみましょう。

神のかたちとは何か?

1.個性をもつ存在

三位一体の神がこの働きをされたことは見てきました。そこでは会議がなされ、神だけの交わりがありました。その会議が行われた時期は第6日の以前にです。時間が存在する前。すべての被造物が造られる前。それら以前にこのご計画は存在し、神が言われるのは、すべての被造物は感情的なものが入る余地はなく、すべてのものは焼かれ、すべてのものは死に、すべてのものは消え失せる、のです。第二ペテロ3:12でペテロは、すべては焼け溶けると言っています。真実、私が信じているのは、この世界は巻物がまかれてしまうように、存在が消されていき、すべて宇宙は存在の外に追いやられるということです、すべて焼かれるのです。

たった一つの永遠の終わりまで残るこの形ある宇宙を構成する存在、それが人間です。人間だけが神が最終的に重要とされるたった一つの存在なのです。すべては人間のために造られ提供されましたが、それは神の栄光がほめたたえられ感謝がささげられるためでした。そしてそれらを通して神の力、神の知恵、神の知性が示されています。この世界の複雑さ、バラエティーの豊富さゆえに人は神に栄光を帰しほめたたえます。しかしそれらはすべて焼かれてしまうのです。全てが、です。神のかたちに似せて造られた人間だけが残るのです。人間だけが三位一体の神にとって最終的に重要であるとされたのです。三位一体の神の交わりから創造された人間だけなのです。

人は動物のような生き物です。単純な意味から言えば、動くことができ意識があります。人はいのちの息が与えられた存在です。創世記2:7で神は、人の鼻にいのちの息を吹き込まれ人は生きものとなり、それはまさに動物であるということです。創世記7:22で言われているのは、いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいるものと書かれています。すべての動物はいのちの息をします。それらはすべて生きていて、いのちの息があり、創世記が示す生きものというのは意識があるもののことです。植物ではなく意識があり動くことができるものです。人もまさしくそれであり、これは大きな類似点です。三位一体の神は他の被造物とは違うものを造ろうと計画されましたが、それらは進化によってそのような存在になるのではありません。

さてここで4つの人に関する特徴について考えていきたいと思います。一つ目の特徴は明らかなものです。人は神のかたちに似せて造られたということです。このことは繰り返し語られていて、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」 「かたち」と「似せて」とは同義語です。へブル語ではこの2つの言葉の間に違いはありません。これらは繰り返されることによって強調され、へブル語で強調する際に活用される典型的なやり方です。「われわれのかたちとして」、「われわれに似せて」、は同じことなのです。27節で、「ご自身のかたちとして」、「神のかたちとして」、神はお造りになったともう一度繰り返され4度にわたって繰り替えされることになり、私たちは神のかたちとして造られました。それではこれは何を意味するのでしょうか? 何を意味するのか? それはそのことが意味することの故に、とても大事なことです。それは「違い」を意味しています。そのことが示すのは、我々人間とその他動物の間にある違いを明確にしていて、意識を持っている比較的上位に位置する動物でさえ我々とは大きく違うことを明らかにしているのです。

この事が私たちに教えるのは人間は進化することはできないということです。それは不可能です。あなたは神のかたちに進化によって到達することはできないのです。遺伝子をどうにかすればできるようなことでもありません。染色体を研究すれば、どうにかできるようなものでもありません。DNAに現れている何かによってどうにかできることではないのです。

神のかたちとは一体どういうことでしょうか?ヘブライ語の言語で「かたち」は 「tzelem」となっていて「刻む、彫刻する、つくりあげる」「切り払う、切り離す」などの意味です。言い換えると「神のような人に削ぎ落とされた」と、ある意味では言えます。神のような形の種類であると言えるのです。人間は最も高められた形(ファッション:様式)に造られたのです。人間は神のような形に彫りこまれ、削ぎ落とされていったと言うことができるのです。このことが意味するのは私たちは天の国の様式によって出来ているということです。これは私たちが神の様式によってできていることです。さらにすすんで考えていくと、私たちは永遠という様式によって造られ、これは他の被造物にはあてはまりません。時間と空間のあるこの世界には他にいません。

私たちは生物学的性質の特徴を他の被造物と共通している点があります。私たちは皆、共通の環境に共に生きるものとして、神によって造られました。私たちは共通の生物学的特徴がありますが、それは生物学的環境を共有しているからなのです。私たちは植物と一定の生物学的相互関係を持っていますよね?私たちは二酸化炭素を造り、彼らは何を造りますか? 酸素であり、それが私たちには必要です。私たちが植物を食べることも相互関係です。動物とも相互関係があり、水とも相互関係があり、太陽とも相互関係があり、月とも、私たちの以外の全ての存在と相互関係があり、そのような理由で、私たちは生物学的環境に適応しなければならず、そのような理由で、私たちの体は同じ構成要素から成り立っているのです。

しかしだからと言って私たちは進化した高等な猿ではありません。神のような形に彫りこまれた、切り出されたという意味がもたらす私たちの存在意義は卓越しています。自意識があるという人間の本質的側面は、他の動物とは決して共有することはできません。動物には意識がありますが、自意識はありません。環境に反応して彼らは何がおこっているか知ることができます。しかし抽象的概念について考えることはできないと、繰り返し証明してきました。美と美学への理解、感情と感性、道徳的感覚、道徳的認識、道徳的意識、これらすべてのもの、それが神のかたちを示していて、他者への個人的関係性を持つ能力は、まさに神ご自身の特徴が表れているのです。それはまさに神を知ることができる、神を愛することができる、神を礼拝することができることに表れています。
言わせて頂くなら、神のかたちという概念の核になる部分は「個人的」という言葉に集約されていると言えます。私たちは個人的です。私たちはおのおの個人です。私たちは関係性という基礎の上で、生活し、活動しています。関係性。私たちは交わりについて理解しています。私たちは愛について理解しています。私たちは共同体について理解しています。私たちは会話について理解しています。私たちは考えていること、気持ち、アイデア、経験といったものを他者と共有することについて理解しています。それは神が人を創造した理由であり、神がアダムを造ってすぐ後に言われたのは「人が、ひとりでいるのは良くない。」でした。なぜですか? なぜなら神は個性(人格)を持っておられるお方だからです。個性は関係の中でのみ機能するものです。神のかたちとは、みなさん、個人的関係を持つ知的能力であり、最も重要なのは、神との個人的関係を持つことのできる能力なのです。

神が「さあ人を造ろう。われわれの形として、われわれに似せて。」と言われたとき、神が「関係」の中におられる方であることを私たちに示しておられます。そして私たちを「関係」の中に生きる神のかたちとして造られました。これが答えです。神のかたちとは個人関係を持つことのできる知的能力なのです。神ご自身が、たった一人で、孤独に、引き離された個人として存在することはありません。神はいつも家族の中に存在しておられます。神は父であられます。第二位格は御子です。第三位格は聖霊です。アウグスチヌスは4世紀に次のようにいつも言っていました「御子なしで神は存在されない」と。

個性(個人)の始まりという驚くべき不思議は、一つの神が、3つの存在、実体、本質、現実を持っておられるというです。一つの実体、一つの本質、一つの存在の神が個人、個性を持っておられるのです。神が私たちを神のかたちに造られたとき、個人的な存在として、関係の中に生きるものとして造られました。個人的な存在、自意識を持つ存在、それゆえに関係の中に生きる能力を持つ者として、― もし私が動物であるなら、存在していることさえ意識できないのです。どのようにして私は他者を意識しているのでしょうか?私は個人的存在であり、私は私が存在していることを知っていて、あなたが存在していることも知っていて、そして神が存在していることを知っています。

神は複数形のお方です。神は三位一体の関係の中で存在され、私たちはその関係性のために造られました。これは神のかたととしての存在論に関する側面か、自然に関する側面です。個人、そして関係なのです。

いくつかの倫理的なことが、私がすでに述べたことの中にあります。自意識を持つ個人は、倫理的であるという特徴があります。良いことと悪いことを知っています。美徳とは何か理解しています。モラルを理解しています。義とは何か理解してます。罪について理解しています。聖さを理解しています。不従順と反抗を理解しています。正しいことを行う能力を持っています。悪いことを行う能力を持っています。天の父との聖い愛の交わりに必要な能力を持っています。神を知り、キリストを知り、聖霊を知る能力を持っています。神のかたちとして造られ人として、正しいこと、間違っていること、良いこと、悪いことが何であるかを知る能力を持っています。

これが人間存在の真実であり、からだの構成は動物に似ていて形ある存在です。肉によって構成され、同じ原材料で造られています。しかし私たちと動物の違いは目に見えないところにあります。その違いはDNAから探すことはできません。染色体にもありません。それは目に見えないものであり、神のかたちとして造られた人の真理で、神と人と関係性の中で生きていく能力です。そして何世紀にもわたってなされている質問があります。「肉である人が、神のかたちを生むのでしょうか?」 それは違います。神のかたちとは、最も聖く、真実な意味においてなのです。

頭が痛くなるような哲学論議に入りこみたくはありませんが、私たちはみな、ちりからちりに帰る存在で、そのことは神とは似ていません。個性は永遠で、神に似せられています。私たちは神の御国において、個性による関係性を永遠までも他者と、そして神と楽しむという能力を持つ存在なのです。肉のからだは神のかたちを多く表してはいなくて、肉のからだは神のかたちを表すものを乗せる、乗り物のようです。もしからだがなかったら他者と関係性を持つことは困難になるでしょう。神は霊であり、かたちが無いので肉のからだは神のかたちではありませんが、形あるこの世界で私たちを乗せる乗り物としての役割を果たし、神のかたちがその乗り物を通して表されていくのです。

アウグスチヌスはよく次のように言っていました「人のからだは理性をわきまえた魂に適したものであり、表面的な特質のためにあるのではなく、人間の四肢は、むしろ直立して、天を見上げ、天の高いところを見続けるためである。」 ジョン・カルバンもまた同じような考え方で、神は私たちを立ち上がるようにされ、そのことで、私たちは互いに向き合うことができ、そのことで神を見上げることができ、これらのことを象徴的に表しているのが、私たちが関係性の中で生きる能力があることなのです。肉のからだは神のかたちではありませんが、乗り物です。ヘンリー・モリスは次のように書いています。「私たちは次のように言うことだけできる。神ご自身は肉のからだを持っておられないが、神は人間の体を肉のからだとして機能するように、肉のからだを持っておられない神ご自身の方法によって形づくられた。」

神は見ることができ、聞くことができ、臭うことができるのは、創世記8:21でも書かれていて、目もなく、耳もなく、鼻もなく、手もなく、口もないですが、話すことも触ることもできます。さらには、目に見える人を造られて、形ある肉のからだを造られ、創世記18章を見ればわかりますが、御使いにも同じようなことをなされています。御使いは霊の存在であり、そして時に応じてからだをまとうことがあるのです。

「(人間の体には神の意図する)なにかがある」とモーリスは言います。「神ご自身をあらわすために、人間のからだという、ユニークな方法を用いられました。神は人の体をその心とともに造られる必要がありました。それによって神は動物のようにではなく、見上げたような表情で立ち上がった姿勢をとり、顔の表情によって感情をただしく表現する能力があり、頭脳と舌によってはっきりとした発音で象徴的なスピーチを行う能力があるように造られたのです。終わりの時代に、神は人となられ、神の御子のために人のからだを用意されて、そして人の形をとられ、それはまるで人が神のかたちに似せて造られたのと同じです。」

ですから私たちは神の形に造られました。個性を持つものとして、関係の中で生きるものとして、正しさと間違い、そしてモラルについての理解、それは私たちの関係性、特に神との関係性において非常に重要なものとなるのです。

2.言語を扱う存在

ところで、ここにはとても興味深い単数形と複数形があります。26節に「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」― 「人」は英語では単数形ですが、後半の方では「彼ら」と複数形になっています。「人」は単数で呼ばれています。「人」は一般的な意味合いにおいては複数ですが、発音(表記)では単数になります。「人」は人類を指します。神は人類を造りましたが、まず一人の「男性」、一人の「女性」を造ることによって人類を造り、この2人が残りの人類を造り増え広がることになるのです。

「人」は、一人の男性を指しています。2章ではじめにアダムが造られました。しかしアダムは、男性、女性のもとになる存在でもありました。この点が「彼ら」という表現が使われている所以なのです。私たちは2章においても特徴的な創造のみわざを見ることができます。はじめに人が造られ、人は動物たちに名前をつけました。

人が動物に名前を付けるまで、神が人にその妻を与えなかった理由は明らかだという人がいます。人には代替案がなかったというのです。それが真実かどうかは私にはわかりません。それはプロセスをスローダウンさせることになると思います。女性とは関係なく、ほかの考え方なのです。(※このあたりの訳は難しくて、意味が分からない日本語になってしまい申し訳ございません。)

本文に戻り、まとめてみます。ここには非常に多くの要点が含まれています。神が人を造られたとき、27節の最後にて「彼ら」という表現を使われたのは、男を造り、そして男と女と呼び、彼らを造ったのです。男性と女性、ゆえに神は彼らを造ったのです。この点は私たちを2つ目の要点への導き、次回に持ち越さなければなりません。この点は非常に興味深い点です。私が今日述べたかったのは、人の創造に関するこの大きな4つのポイントです。

まず第一に、神は神のかたちに人を造ったこと。これがまず最初です。人は個性を持つ存在で、関係の中に生きる存在です。2つ目に、人は地上の王としてすべて造られたものを征服し、支配することです。3番目には、地の上に増え広がる存在として人が造られたこと。4番目には、人は人を取り巻くすべての豊かさを受け取るための存在であるということ。すべての動物を凌ぐ存在だということ。ひとつのはっきりとした特性があり、それは、もし個性について話し、関係について話すなら、みなさんは注意深く聞いているということです。あなたは言語を使って話さなければならない、コミュニケーションしないといけないですよね? 不平不満を言ってばかりいるなら、その分、人間関係がどの程度な豊かなものになるか、そうではないかが決まってきます。「ああ、それは私の主人のことを言っているわ」とあなたが思っているなら、それは、その通りなのでしょう。

人間関係はコミュニケーションの問題ですよね?動物は関係性を持つことができません。彼らは自意識がなく、個性がなく、関係性の中で生きてはいません。彼らが必要なものを本能的に得ようとし、それは食のためであり、いのちの維持のためです。しかし人類の場合、話すという能力があります。これは驚くべきものです。ニュースウイークマガジンの記事であったように、話する能力がどのようにして得られたのかそれを理解しようとする努力は絶望的であり、決してその理解は得られるものではないのです。抽象的に話すこと。抽象的な理由のために。

言語学の研究が証明していることがあり、オラーとアムダルという言語学者が、次のような声明をだしています。「人間存在だけが言語システムを得るように造られていて、その言語システムというのは、この世界の5000を超える言語のことです。」興味深い声明です。この世界には5000もの言語があり、人間だけがこれらの言語を習得しているのです。「イルカはどうなのですか?ジャンプしなさい、と言えばジャンプするではないですか。」とあなたは言うかもしれません。彼らはこのジャンプという言葉が空中へ飛ぶという概念で理解してはいません。確かなのは、この「響き」は彼らの口の中に魚が入っていく結果があるということです。イルカはそれを学んだのです。

オラーとアムダルが言うには、抽象的な概念、正確で優美な概念を獲得する驚くべき出来事はいくつかの結論を生みだし、語彙を用いた抽象的概念は、すでに実体としてそこにあったということで、元々言語を習得していた確率は非常に高いということです。抽象的な内容を話す高度な言語というものは、人間の脳が持つ力を十分に必要としています。私たちはそのことを子供たちにも見ることができますよね?彼らが話始めて、そして言語を複雑なコミュニケーションの中から獲得していきます。

偉大なユダヤ人言語学者ノーム・チョムスキーは、言語の学習能力は人間存在に与えられたものであることを示しました。高度な猿は数字というシステム、空間にある抽象的な属性、抽象的な表現を扱うことができないことを実証しています。チョムスキーが言うには、人間の心の深い構造は初めから与えられたものであると言い、それは万人共通の文法によって成り立ち、― よく聞いてください ―  不変的に「万人共通の文法」が人間の間にはあると言うのです。それは真実です。あなたは何か存在している言語を他の言語へ翻訳することができますが、それがなぜ可能なのかというと言語というものの基本構造が全く同じであるからなのです。それは文字通り神のかたちであり、だからこそ私たちは個性のつながりというものを持つことが可能になるのです。

ここで書かれていることは非常に難解です。ところで、人類の言語を扱うユニークさについての彼の研究は、進化論者達には歓迎されていません。進化論者はノームチョムスキーを進化論者だと呼びますが、チョムスキー自身はそのことを否定しています。

猿やその他の生き物のようではなく、人間の言語を扱う能力は永遠の御国への入口となるのです。そのドアの向こうには神の臨在があり、そこで求められるのは、私たちが天の御国の様式によって造られたこと、それは他者とコミュニケーションし、私たちが似せて造られたその方、創造主とコミュニケーションするためであること、このことを認識することが求められます。オラーとアムダルは次のように書いています。「私たちの言語を扱う能力は、限られた期間での経験によって得られるような能力ではない。もし無限の時間と空間が、無限の世界へ広がっていることがはっきりしているなら、原材料で厚生されているこの世界は、人間が持つ抽象的な概念への説明することがいまだにできず、単純に考えつくのは言葉は与えられた賜物である、ということです。」驚くべきことです。話すことができる神だけが、話すことができる人間を造ることができたのです。神がコミュニケーションされるので、だから私たちもそうするのです。ですから、私たちは神のかたちに造られたのです。

 
 

※ ジョン・マッカーサー師のメッセージを翻訳したのですが、私の英語力では非常に難しい点が多々あります。実際の表現とは違う間違っている箇所はあるかと思いますが、どうぞご容赦下さい。

 

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