創造 第6日 Part.3

Creation Day 6, Part 3
Genesis 1:26-31 July 25, 1999 90-219
John MacArthur

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神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。 創世記1:26-31

 

動物を支配する

さて前回私たちは24、25節で、地上の動物、それらの3つのカテゴリーについて見てきました。24、25節では3つのカテゴリーについて言及されていて、26節でも繰り返されています。家畜、それは飼いならすことのできる動物です。はうもの、それは地上から低いところで生きている動物であり、昆虫から齧歯( げつし) 動物、そして爬虫類といったような生き物です。野の獣、それらは、間違いなく4本足で地上を歩く飼いならすことのできない動物です。

神は人間のためにこれらの環境を十分に整えて、そして、26、27節になり、この箇所が私たちが前回見てきたところです。その時、神はすべては準備が整ったことを語られ、すべてこの世界の被造物は人が生きるために造られたのであり、このすべての被造物を通して神の御手のわざを見ることができるのであり、大空を通して、地の獣を通して、私たちはイザヤが預言したような栄光を与えられているのです。神はこのすべての世界を造り、そのすべての環境は人間のためであり、そのため人はすばらしい創造的な卓越した能力を見ることができ、それは神のかたちに造られた心であり、神は神の美しさを示し、すべてを造られた目的を示し、神はこのすべての環境を通して神の栄光を見せることができるのです。

これらすべてを完成し、準備されたのは、人の住むべき場所のためであり、26節で神は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして」と言われました。ここで私たちが見ることができるのは、人はすべての生き物の王である、ということです。

※ 被造物すべてを完成し、準備されたのは、人の住むべき場所のため。
そしてその結果 → 26節「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして」

※ 人はすべての生き物の王である。

1.神のかたちとして造られた

しかし「さあ人を造ろう。」と宣言されたとき、このポイントで少し立ち止まる必要があります。ここでは人間の4つの特徴が概説されています。まず第一の明らかな特徴は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして」、であり、27節で続いていくように、神は人を、ご自身のかたちとして造られたことなのです。4度も繰り返されていますが、それはまるで私たちが見誤ることのないように繰り返されているようです。

人は神のかたちに造られました。5章でもそのことは繰り返されていて、「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。」 では神のかたちとは一体どのようなことなのか?それはあなたは動物ではなく、あなたは高等な動物でもなく、猿や、テナガザルや、ヒヒやその他のいかなるものから進化したのでもないのです。人のはじまりは、地上の原材料によってというよりむしろ、神の様式によって造られました。この宇宙で神の様式によって造られた唯一の存在です。

人は卓越した存在であり、人の最も真理な部分は、どのような科学的処理によっても減じることができません。人の最も真理な部分はDNAから見ることもできないし、染色体からも見いだせないし、脳を解剖しても無理で、心臓を切り開いても無理で、神経回路をいじくってもどうにもなりません。あなたがどのような科学的検証、解析を行ったとしても、人間存在の真理を見つけることはできなく、それは触れることのできない現実であり、人間は科学的に解明できないものによって構成されている卓越した存在なのです。人はその他のすべての生き物と全くかけはなれた存在なのです。

伝道者の書3:11で、非常にすばらしい宣言がなされています。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。」なんと素晴らしい宣言でしょう。神は永遠を人の心に真実、与えられたのです。3:21を見ると「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」筆者は人の霊が上がっていくと言い、その他の生き物は死に地にその霊が下っていくと言い、それは存在の外に追いやれれることで、なぜなら人の心にだけ永遠が与えられたのだからです。

私たちのこのからだが取り去られても、私たちは永遠に生きるのです。ですから神のかたちとは、目に見えるかたちのことを言っているのではなく、「神のかたち」が示すものは、動物とは決して分かちあうことのできないものであり、それが意味するのは前回話したように「個人(個性)」のことであり、人は個人的な存在なのです。そこに意識を持っている動物との大きな違い、すなわち動物にはない「自意識」があるのです。動物は環境にたいして意識があり、環境に対して反応しますが、彼らが環境に対して反応しているということを知ることはありません。それは単に本能的なものにすぎません。

しかし人は意識があり、環境に反応し、そしてどのように反応しているのか知り、なぜなら認識的に反応しているからです。本能以上の理由があるのです。人は抽象的に考える能力があります。人は美を認識することができ、感情を感じることができ、モラルの意識があり、そしてこれらの上に、人は他者との関係を個人対個人で持つ能力があり、他者と、そして特に神との関係を持つことができ、神を愛し、そして礼拝することができます。それが個人(個性)です。人は愛する能力があり、交わりを持つ能力がり、談話をし、親しく交わり、人は言語を持つこの宇宙で唯一の存在です。

三位一体の最も重要な要点は、前回述べたように26節が示す「さあ人を造ろう。」です。ここでまず神は神が交わりをもつお方であることを示していて、なぜなら人は神のかたちとして、個人関係を持つことのできる存在であり、神は私たちが知っているように三位一体であることを明らかにされ、新約聖書からのみことばによってそのことが明らかにされています。ですから、三位一体の関係の中におられる神は人を関係の中に生きる神のかたちとして造られたのです。さてここに人間の存在論に関する本質的要素があり、モラルに立った行動のできる能力を持つ人間の道徳的な本質的要素であり、聖と義に生きる能力があり、犠牲的に生きる能力があり、神に対して従順に生きる能力があり、神の永遠の救いを受け取る能力があるのです。

2.地上の王として造られた

前回私たちがみたのは、人は神のかたちに造られ、それは簡単に言うとそのことが主に示すことは個性(個人)のことであり、それゆえ関係性のことでもあります。それでは残りの人の神のかたとして造られたその特徴をみていきましょう。2番目に人は神のかたちとして造られただけでなく、地上の王として造られました。26、28節でそのことを見ることができます。26節で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」とあります。

28節の真ん中で言われているのは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」です。人は神によってこの惑星を支配しるように造られ、地上の王としました。26節では、「彼らが、~支配するように。」とあり、28節では、「地を従えよ。」「支配せよ。」とあります。26節で名詞が複数形になっていて、それは、人が集合体であり、それで、「われわれのかたちとして」とあり、「彼らが、~支配するように」となるのです。

それは集合的な名詞であり、人は神のかたち、すなわち神聖な様式で造られた種であり、そのことゆえに全ての生き物を支配する責任が与えられたのです。そのとき神は一連の連続したみわざに戻っています。思い出すのは、5日目に遡ると、魚が造られ、鳥が造られ、家畜が造られ、はうものが造られ、そして地の獣、あるいは、28節の最後で示されているすべての生き物が造られ、この一連の連続が繰り返されています。このすべての惑星の上に生きる、高度なかたちある命、それらはすぐその後に、人間の支配下に置かれるということです。それでこのことはとても実際的なことを含んでいて、2:19節では、神の創造のみわざと同じ意味合いを持つ縮図をここに見ることができます。

「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、」私たちはすでにこの驚くべき要約された繰り返されている箇所を見ることができ、「それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」これは人が初めにやったことでした。もし人が生き物の支配者であるなら、生き物たちを見分ける必要がありました。人は生き物を分類し、そのようにして、与えられた生き物の特徴を見る能力を持っていて、ちょうどよい名前を与えたのです。

エデンの園の管理

2番目の責任は、2:15に戻ると「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」思い出してほしいのはここではまだ呪いはなく、罪もなく、堕落もなく、死はなく、ただ神にとって役立つために園の管理を任せられたことがありました。「守らせた」とは一体どのような意味なのか知ることはできませんが、人には園において耕し豊かにするという責任があったのです。

8節に戻ると、園についてのいくつかのことを見ることができます。「神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。」私たちはすでに1章で学んできました。ここでは同じ内容の詳細が繰り返されています。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。」2つのとてもユニークな木として分けられました。「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はビション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこにはベトラハとしまめのうもあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」 

植物には水が必要で、ちゃんと行き届いているいるか確認し、ケアすることが必要でした。その段階では全てのものは死ぬことができないので、ケアする目的はより繁殖し、神の栄光があらわされていくように、という目的だったのでしょう。

園において、神はある責任もまた与え、それは名前を付けるというものでした。私たちは見てきましたが、16節に戻ってみましょう。「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてもよい。』」 人はすべての果物を味わい楽しむことができ、「『しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」と言われました。これは何を意味するでしょうか?一つの警告がなされています。神の場所すなわちエデンの園に置かれた人間は動物に名前を付ける責任が与えられ、それによってそれぞれを認識することができるようになるのですが、その人間が神によっておかれた状況から離されることについて警告されているのです。人間の責任は、神の創造について学び、自らが見た神の栄光と偉大な不思議を学ぶということでした。

それから、被造物を分類し、どのようにしてか創造主は被造物を一瞬のうちに形づくられました。思い出してほしいのは、神の園を管理する責任が与えられていたにも関わらず、そこでは血を流すこともなかったのです。そのことについて考えるとき、わたしは私自身の庭について考えました。わたしは庭があります。そこには死が存在し、殺さないように気を付けてはいますが、他の人達と同じように、もしかすると私は何かを殺しているかもしれません。この事実を考える始めて、私たちは神の園に、今現在も生かされているのでありますが、しかしそこは悪い影響が及んでいて、それは堕落であり、罪であり、死なのです。

しかしながら、神がお造りになり、神の栄光が表されたこの世界に私たちはまだ生きていて、神の園を管理するという責任について考える必要があると思います。私たち自身の自宅に戻ったときに、どのようにあなたが庭を管理するかは分かりませんし、すべての素晴らしくそして美しい植物を見て、私たちは神の栄光を誉めたたえる思いが溢れてきます。毎週来る一人の男性がいるのですが、彼がやることはよく知っていて、植物をいつも管理し、美しく保ち、あなたがいつでも外に出ると見事なバラをカットしていくことができます。いつでも、私たちの家(教会?)にこればいくつかのコンテナを見ることができ、そこには見事なバラでいっぱいになっていて、その人はある時クリスチャンとなったのですが、私は彼が園を管理することによって神に栄光を返している、その姿を見ることができます。

私はどのような意味合いにおいても植物を礼拝しませんし、昨日やってきた鳥を礼拝することはありません。一昨日だったでしょうか、愛らしい子鹿が私たちの庭で楽しそうに遊んでいました。時折起こることですが、地域に生息するエミューがやってきます。それには納得のいく理由があります。もし神があなたに特定のスペースを与えたとしたら、この世界のわずかな部分を活用する権利をもって、それを与えた神に栄光を帰するのです。神が造られたこれら全ての植物はなんと素晴らしく、なぜ神はこれらのものを造ったと思いますか?何のために?神に栄光が帰されるためにであり、あなたがこれらを耕し、神の御力をそこに示すことになるのです。

ですから、これらすべてを通して私たちは神に栄光を帰さなければなりません。私たちのこの地は呪われていて管理するのは容易ではなく、アダムが罪を犯した後、私たちは働く必要が生じ、神の創造の美しさが表されるために、私たちは汗を流さなければならないのです。私たちは今でも神の園の管理者であり、クリスチャンは管理者のようであると私は考えます。この惑星は一時的なものであり、いずれすべて焼かれてしまいます。しかし私は今ここにおり、神の栄光がここに表されることを求めています。アダムはその責任が与えられていましたが、堕落したという側面、罪という側面は私たちが望んでいる神の園を征服することはできません。この世界は荒野のようであり、私たちは死について聞き、それは私たちの世界で起こっています。私たちは死んだ植物をもっていますよね?

ドラッグという植物もそうだし、バクテリアという生物も伝染病を生みだし幾万もの人々を殺してしまいます。殺人者の動物がいます。元々いた存在ではなく、呪われて堕落した時に出てきました。へブル2:8でそのことについて書かれていて、7節では栄光と誉の冠をうけることが書かれています。8節では次のように言っていて、「万物をその足の下に従わせられました。」とあり、それは真理であり、キリストは人となられた方で、まことの地上の王です。「万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。」その次の箇所は非常に重要です。

「それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」これは真実ですよね?キリストはまことの地上の王であり、しばらくの間、御使いよりも低くされました。私たちのところへ来られ、私たちと同じようになり、そして、統治権をもって支配され、なぜなら彼はすべての被造物を従わせることのできる偉大な力の持ち主だからなのです。私たちがすべての被造物を見るとき、それらがキリストに服従し、8節が言うように万物が彼に従っているのです。彼に従わないものはなく、しかし私たちはまだすべてのものが彼に従っているのを見てはいません。動物の世界がすべて支配化に置かれているのを見てはいませんし、従順で、そしておとなしくはないのです。すべての植物が何もケアしないで、豊かに育っていくのも見てはいません。

戦争から解放された世界を見てはいませんし、憎悪や、虐殺もそうですし、様々なことがあります。死や病気もそうです。ですからすべてがキリストに従わせられているのをまだ見てはいませんが、私たちはそれを見ることになります。いつの日か、すべてのものが彼にひれ伏し、呪いを元通りに戻され、彼は地上の王となります。10節を見てください。「ふさわしいことであったのです。」キリストは「万物の存在の目的であり」 究極的にすべてのものの「原因である方」で、「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた」のです。

彼ご自身の死を通して彼は地上を治める権利を得られ、そして彼の栄光に入られ、この世界を支配し、この世界は彼に服従し、彼は私たち共に多くの彼の子たちを引き上げ彼の栄光のうちに入れて下さるのです。ですから私たちは、支配する権利が取り上げられる前には、すべての動物をコントロールしていて、神の園をコントロールしていました。しかし堕落したことによってそれを失い、まだすべてを従わせていないイエスが、それらを従わせるとき、もう一度この支配権を得ることになり、それは千年王国で見ることができ、回復された地上であり、エデンは元通りになってそこにあります。預言者イザヤが言ったことを思い出しますが、砂漠にバラのようなものが咲き、ライオンが小羊と共に横たわり、子供たちが蛇の穴で遊び、もし誰かが100歳で死んだのなら、その人は赤ちゃんで死んだことになりのです。ですから死はその力を弱められていくのです。(イザヤ11:6-9)

千年王国において死ぬことなしに1000年の間、生きるということは考えられる理にかなったことです。死は弱められていき、呪いも弱められていきます。地上にはまだ呪いの要素はまだありますが、それは地上に生まれながらの罪を持った人々がいて、彼らは神に逆らうのです。ですから罪はそこにありますが、その多くは従わされていて千年の終わりに、すべての地は消され、しい天と新しい地が創造され、そこでは罪はなく堕落もないのです。そして人はキリストと共に御国を治め、来るべき日には、キリストは被造物を従え、私たちはその制服を楽しむことになるのですが、それは私たちがキリストと共に治めるからなのです。

第二番目に、人は地上の王だと言い、人は地上を治めているといいました。人は他の生物の延長上にいるのではありません。人間はこの宇宙を治める王として、神のかたちに造られ、栄光の千年王国においてもキリストとともに支配し、イエス・キリストご自身によって世界は服従させられます。

事実、みことばの中で預言者によって言われているのは、1000年の始まりにおいてこの地のすべてが新しくされることです。その時の特徴的なこととして呪いが弱められていき、その始まりにおいて人には支配権が与えられることです。すべての被造物は秩序をもって人に仕え、そして人はこの地の王となります。三番目に、創造の中で見ることができるのを、創世記に戻ってみてみましょう。創造のみわざで見ることができるのは、人に与えられた責任であり、28節で言われているように、「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」27節では男と女の創造について書かれています。

生む。ふえる。

さて3番目の人に与えられた責任ですが、人は神のかたちをあらわしていて、それは個性であり、関係性であり、地上の王となるべき存在であり、園の管理を任せられ、そこですべての動物を支配し、それは神の栄光があらわされるためであり、人間のいのちを増え広がらせるべき存在でした。ですから、神は男と女とに造られ、それは、神が結婚と出産のご計画によるものでした。この事実は地上の動物すべてにあてはまることです。植物でさえ繁殖する能力をもってあり、それは種と実の中にある種によります。

神は関係性の中で生きる能力を人間に与え、助け手も与えました。創世記2;7において「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」ちょっとすすんで18節を読むと、「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。』わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」多くの人がこのことが意味するのは、皿を洗ったり、ごみを捨てたり、ベッドメイクしたり、そんなことだと考えています。

それらは助け手を示すことではなく、男には一つ主要な助け手の必要があり、それは生殖のことであり、人類の繁殖のためであり、そのことを示しているのです。男には助け手が必要で、パートナーが必要で、完璧にマッチする相手が必要なのです。地のちりから神はすべてのものを造られましたが、ここでは違った方法が取られていて、20節を見ると「ふさわしい助け手が見つからなかった。」とあり、男のレベルにあった生き物はいなかったのです。私たちはここで断言していく必要がありますが、人間は動物に栄光を与えるべきではありません。神のかたちとして造られた存在に与えられるべきであり、それはたった一人、アダムです。

「神である主は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

恥ずかしいと思わないとはどういうことかと言いますと、それは罪がなかったということなのです。このセクション、すなわち創世記2章は、シンプルな文節であった1章27節の後半部分をさらに詳細に語られているのです。2章は単なる付加的なものではなく、始まりに何が起こったかをより拡大して見ることができるのです。ここでも同じように男がまず造られ、その後に女が造られました。そのように1章では語られていました。そして2章があなたに語っているのは、7節で、男を造り、18節においてその男に従っていく女性を造りました。ここが重要です。男がまず造られて、それは創造のみわざにおいて必要なことでした。

創世記は驚くべき正確さを示しています。それがどういう意味かを言わせて下さい。遺伝子研究から確認されているのは、男性はX染色体を持っていて、それは女性を生じさせ、Y染色体は男性を生じます。男性はXとY染色体を持っていて、女性はそうではありません。もし女性が先に造られていて、男性が女性の体から造られたのだとしたら、X染色体はなくなり、再生産は不可能となります。この場合女性が再生産することができ、なぜなら女性はY染色体を持っていないからです。男性は初めに造られる必要があり、なぜなら男性はXとY染色体を持っているからであり、Y染色体は男性を生み出すことができ、Xの女性を生み出します。

神はご自身がなにをされているのか正確に把握されていて、それで調べられていて、骨を取るのですが、ここで科学的なものを見ていくとすれば、女性を造った細胞組織にDNA情報が含まれていたのです。神は女性を骨から造り、その骨はパートナーであるアダムのもので、彼らはおなじような男性と女性を生み出すことができます。創世記に出てきませんが、X染色体とY染色体は神に知られています。男性は遺伝子情報を持っていて、それによって女性が彼から造ることができ、そして同じ種類として男性と関係性を持ち、その関係により同じような男性と女性を生み出すことが可能なのです。

ですから、彼らは一緒になって、すべてを支配するように、と1:28節で命令されていて、そこでは生み、ふえること、そして地上をしたがえることが書かれています。うめよ、ふえよ、という言語は生産力に関する言葉であり、それが意味するのは、生む能力で、それは創世記全体を通して書かれています。すこしばかり9章を見て時間を取りたいのですが、そこでノアが洪水の後に神によって祝福されます。ノアと彼の息子たちは、この命令をもって地上に生み、ふえて、地に満ちて、その地において赤ちゃんを作るように言われるのです。子供を作ることに関して、創世記17章16節では、アブラハムとサラに語られ、「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」

創世記20:17において、「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。」 これはあなたがふえひろがるための、旧約聖書の出産に関する約束です。ですから男性と女性は、神のかたちの中で出産するという素晴らしい特権を与えられていて、そのように造られているのです。なんと素晴らしい祝福でしょうか。あなたは赤ちゃんをこの世界に連れてくることができますが、その赤ちゃんは、永遠に生きることになるであろう、神のかたちなのです。このような存在は他には決して存在していません。

なぜなら、小さい命は関係性を持つ能力を持っています。私は私の父のように私の家族のメンバーの一員として、その関係性を喜びたのしみますし、孫娘が両手を広げて私に向かって走ってきて、私は彼女を抱き上げハグすますが、これほどのすばらしい事が人生であるでしょうか、こんなに素晴らしい関係性を持つことができるのです。私たちは結婚という非常に豊かな関係性を持つ特権を与えられており、それは、ふえひろがるための関係性、一体となる能力、個性、交わり、といったものを持っているからです。私たちはお互いの個性を楽しむことができるのです。

そのために、神は、地を従えることができると言われます。「地に満ちよ」と9:1にあり、同じようなことが1:28にもあります。神は結婚を一人の男性と、一人の女性によって成り立つものとし、それは2章から明らかであり、そしてその父と母から離れていくのです。彼らは一体となり、人生を通して、一つとなっていきます。「一体となる」とは性的な意味合いがあります。しかし真理における「一体となる」の意味は、一つの人生を、一体となって歩むということです。

これは人に与えられた権限で、なぜなら神のかたととしてふえひろがるためなのです。私たちがなぜ子供を持つクリスチャンの両親へ執事に関する理解について語るときに、神の所へこの小さい者たちを連れていくことについて強調し、神のかたちとして造られたこと、イエス・キリストへの信仰の知識を伝えることについて強調します。ですから神はこの能力、すなわち生産力と呼ばれる出産する能力を基礎とされ、一人の男性と一人の女性の人生という環境において結婚という基礎を定められたのです。進化論に基づく考えは、進化論的に人の習性を説明しようとします。

彼らはなぜそのようになっているのかを理解できませんし、なぜ人間が「つがい関係」となっていくのかを理解していません。彼らの進化論によっては理解を得ることはできません。私たちの文化ではこれらの神が基礎としてなされら事に関する理解はないので、いやおうなしに言い逃れできない赤ちゃんが生まれ、あらゆる状況における私生児がいるという状況なのです。しかし事実これらのデータから、彼らが言うのは地上にいる98%の人間存在はつがいであると言います。それは神がそのように私たちを造られたからなのです。

もちろん全ての同性愛者は彼らがしたいことの全てのために、神の御心を破壊しようと襲いかかり、私たちの社会の中で大きな成功を収めています。ローマ1章が言うように、神の怒りが天から啓示されています。それについてはもうよいでしょう、人は神のかたちに造られ、地上の王として造られ、命の繁殖者として造られました。

喜びを受け取る者

最後に人は喜びを受け取る者として造られました。神は人を祝福し、28節で「神は彼を祝福された」とあります。神は祝福を与えることのできる存在を求めておられました。

神は人を祝福されました。どのようにでしょうか?支配を与え、神のかたちとして造られ、永遠に生きるものとし、関係性を持つ能力を与え、個性を持つという祝福を与え、すべて神の造られた被造物に対する理解を与え、人間同士お互いに知ることができるのと同じように、神を知る能力を与えました。彼ら自身を再生産する能力を与え、神のかたちとして地に満ちるようにされ、神は祝福し29節で「神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。』」

ここで、あなたに質問したいのですが、なぜ神は植物に、このようなバラエティーの豊かさを与えたのでしょうか?果物と草のことですが、ここでは死が無く、この時点で人は生まれながらにベジタリアンでした。おそらくこれらの植物の成長は果てしなく続き、人はその木に登って楽しむことができたでしょう。私はしばしば考えることなのですが、神はやろうと思えば色が無い空、色が無い水、色のない世界を造ることはできたはずです。しかし神はそのように無機質な植物を一列にならべて、果物と草を地の上に満たしませんでした。私は異文化を訪れる度に、外にある景色と食物を紹介されます。

それはとても驚くべきものであり、ある時は、彼らが用意してくれたチーズやら何やらでいっぱいになった食事のおかげでお代わりはいらなくなります。私が驚き続けているのは、神が人間に与えた能力なのですが、この味を楽しむという能力もそうです。そう思いますよね?臭いをかぐ能力だってそうです。あなたは味を楽しむことを優先的に考えると思いますが、それ以上にあなたは本当によく臭いをかいでいるのです。神は本当にこの味わいをするという能力を人に与えられました。なんという祝福であり、とてつもない賜物が私たちには神によって与えられているのです。

ですからアダムとエバはまず彼らはベジタリアンであり、地の上にあるすべての種を生じる草と、その中に種がある実を食べることができ、すべて地の獣、すべて空の鳥、すべて地上に動く命ある生き物は、これら植物を食べ物として私たちが与えられているように、彼らにも与えられたのです。「そのようになった」と繰り返されているのは、永久的にそのようになったと固定化されたことを示しています。人と動物は、創造のみわざにおいてベジタリアンでした。なぜでしょうか?それは死がなかったからであり、何物も死ぬことはありませんでした。神はこのことを始まりにおいて、固定化されたパターンとしていました。それはこの時は永久的に定められたことであり、「そのようになった」が示すのは永久性です。一つの例が2:9にある、園の真ん中に置かれた「いのちの木」です。

捧げられる犠牲のいけにえ

善悪を知る知識の木もまた置かれました。16節へ行くと、園のどんな木からでもたべて良いが善悪の知識の木からはとって食べてはならないと命じられます。食べると必ず死ぬと言われます。食べることは禁じられていて、それは死と堕落をもたらすことになるのです。とても悲しい話です。まさにそれは彼らがしたことです。

3章では、恐ろしい話が語られていて、私たちはどのくらい時がたったかわかりませんが、その時、エバは蛇によって騙され、彼女は偽りを買いました。彼女は神に従わず食べ、ご存知のようにアダムも食べ、そしてすべてが変わりました。全てが、です。3;19では、突然園の管理が容易ではなくなりました。17節へ戻ると、「また、人に仰せられた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたからのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」

※最初の死 3:21 神は裸のアダムとエバをおおうためにはじめて動物を殺された

あなたの人生のすべては、一つの大きな変化があるでしょう。あなたは一生懸命、食物のために働かなければならず、その食物はかつてあなた容易に得ることのできた備えられた植物です。簡単に得られたのです。21節では次のように言っています。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」それは最初の死でした。皮の衣を作るために神は動物を殺さなければなりませんでした。神は裸のアダムとエバをおおうためにはじめて動物を殺されたのです。

※アベルの捧げもの 4:4 羊の初子(動物の犠牲)
4:4に行くと、アベルが羊の初子を捧げものとして持ってきて、それは動物の犠牲のことであり、動物を殺し、主はアベルの捧げものをよしとされました。

主は動物の死による犠牲を受け入れ、そのことはすなわり動物の死による、罪の贖いのための代価である捧げ物の型が始まったことを意味します。神は人々に9章にて、ノアとその息子たちが箱舟から出てきて、神によって地の上にふえ広がるよに言われたときに、肉を食べることを許可されています。9:2で「野の獣、空の鳥、― 地の上を動くすべてのにもの - それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう」突然ここで、あなたは地上の王になっていて、すべての動物たち対する権威を持ちますが、動物たちは必ずしも好意的ではありません。

彼らは恐れて、「これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」 ベジタリアンになることがクリスチャンだとは考えないで下さい。それは始まりの時にあったやり方であり、一度罪が入ってきて神は人々に肉を食べることを許されました。このことはとてもとても重要なことだと、私は考えます。なぜなら神は罪のための死を通して、犠牲の死が求められていること、身代わりが求められていることを示しておられるのです。

栄光の千年王国において、同じようであるのか、という疑問が起こります。答えは「ノー」です。動物はすべて飼いならせるようになり、野生ではなくなりますが、千年王国の間も動物が殺されることはエゼキエル40~48章で語られている神殿にて捧げられる犠牲についての言及で分かります。ですから、動物のうちのいくらかは、祝いのために殺されますが、それは罪が千年王国の時代も存在しているからです。しかし創造のはじめのころに戻るものもあります。預言者イザヤがそのことの理解を私たちに与えてくれますが、彼が私たちに理解してほしかったのは、今のこの世界とある程度の違いがあるということです。

「雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(イザヤ11:7-9) イザヤ65:25では、「『狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない』と主は仰せられる。」とあり、いくつかが違っています。

まとめますと、明らかに私たちはこの創世記2章からさらに多くのことを学んでいけることがわかりますし、未来に見るかもしれないことが書かれているのが分かります。神は人をご自身のかたちとして造り、地上の王として造り、出産するものとして造り、出産して神のかたちとして造られた他者と共にこの地上に満ちるとうにされました。神は人を喜び楽しむように祝福されました。1:31で、神はお造りになったものを見られ、非常によかったと言っています。「良しとされた」と言われた箇所はこの箇所のことではありません。ここでは初めて神は「非常に良かった」と言われたのです。

ここだけの箇所ですが、すべてのものを見られてそのように言われました。何度も繰り返しますが、神は創造者であり、すべてのものを造られた方です。その時、死はなく、なぜなら罪も堕落もなかったからです。すべての進化論の可能性、有紳進化論を含むすべての進化論は、死に依存しています。死は無く、突然変異もなく、何十億年という年数もなかったのです。神が第一日というなら、それは間違いなく「一日」なのです。それで2:1では天と地とそのすべてが完成したとあります。これがすべてです、これ以上はありません。これが創造のストーリーです。

あなたは以上のことを信じますか? これが神のことばではありませんか?

 

 

 

※ ジョン・マッカーサー師のメッセージを翻訳したのですが、私の英語力では非常に難しい点が多々あります。実際の表現とは違う間違っている箇所はあるかと思いますが、どうぞご容赦下さい。

 

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