救われているか、自分を欺いているか Part.1

今晩は、マタイ7:21-27から神のみことばを見ていきたいと思います。マタイ7:21-27、主イエスご自身の言葉です。そしてそれは驚くべきものであり、ショッキングなものであり、悲劇的なものであります。

Saved or Self-Deceived, Part 1
Selected Scriptures October 28, 2007 80-326

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「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもしれはひどい倒れ方でした。」

おそらくこの箇所は聖書の中で最も悲劇的な箇所です。真実は、主の御前に立つその日に、天国にきっと入るだろうと思い込んでいる多くの者が、実は、地獄への道を歩んでいるのだということです。これは最悪な思い込みと言え、最悪な間違いであり、彼らの永遠に関すること、すなわち永遠の救いに関する誤りだからです。

私はしばしば次のような質問の仕方をします、「あなたはローマカトリックのクリスチャンですか?」 そして時には、「あなたは生まれながらのクリスチャンですか? それとも普通のノーマルなクリスチャンですか?」 そしてある時にはこんな質問をします、「あなたは福音主義のクリスチャンですか?」 しかし最も重要なのは次の質問です、「あなたはクリスチャンですか?」 多くの皆さんは自分を欺いていないでしょうか?そのような人は、たった一人だけではありません。キリストと名のつく場所において、自らを教会と名乗りつつ実はそうではないケースがたくさんあることを私は確信しています。そこでは、牧師と呼ばれる導くリーダーがいますが、彼らも牧師ではありません。彼らは自分たちをクリスチャンだと言い集会を持ちますが、彼らは教会ではないし、彼らはクリスチャンではないし、彼らは牧師でもありません。しかしながら彼らは誇らしげに「クリスチャン」というラベルを自分に貼っています。

13、14節からの前回のメッセージにおいて、そこには2つの選択肢がありました。天の御国へ至る狭い門と、天国へ行くと言われてはいるのですが、実は地獄へ行く広い門です。狭い門は見つけるのが難しく通るのも難しい、なぜならそこを通るためには自分を否定し、自分の正しさを否定し、罪を認め、完全に悔い改め、キリストに服従し、すべてをゆだねて従いついて行く。たとえどのような犠牲を払おうとも、です。

真理は見つけるのも難しいし、聞くことも難しい、真理に立った行いも難しい。なぜなら自己愛や、罪を愛する愛は罪人の生まれ持った性質だからです。天の御国へ至る道を見出すのは難しいのです。それは大勢の群衆からは遠く離れたところにあります。その道は狭く何もかも捨てて、たった一人で来て悔い改めるのです。あなたはそこへ入ろうと努力します。同じころに、宗教的なほとんどの人々は広い道にいて、そしてそこには非常に多くの偽りの預言者がいて、彼らはその人々に赦しを与えています。彼らについてマタイ7:15-20で語られています。偽りの預言者、偽りの宗教指導者、キリストの代理人だと名乗る人々、彼らは神の代理人を名乗るが、実はサタンの代理人であり、彼らはサタンの働きを、光の御使いに変装して行い、人々を天の御国への道だと彼らが言う広い道へ導くがその行きつく場所は地獄です。私がこの事に関して確信しているのは、彼らが何年もかけて行われる働きの中に、誰がいたとしても、得られるものは何もないということです。

ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒、勿論彼らにとってこのことは悲劇です。無神論者や、救い主を拒んだユダヤ教徒のような地獄へ行くことになる人々にとって悲劇となります。地獄へ行くことになるすべての人々にとって悲劇となります。しかし悲劇の中の悲劇というのは、イエスの周りにいながら最終的にサタンに属することになるあのユダです。これは本当に悲劇です。これと同じようなカテゴリーの牧師がいます。彼らはクリスチャンでさえありません。そして教会はそのような人々で満ちていて、教会と呼ばれているその場所はノンクリスチャンで満ちています。彼らは自分自身の内なる霊の状態を欺いています。

ですから、主のみことばを聞くことが私たちにとって非常に重要になります。私はこのことについて心を痛めていますが、どうぞ信じて下さい、主は私よりもっと心を痛めておられます。主はこれらの言葉を宗教心のない人々ではなく、熱心な宗教心のある人々に語られたのです。主は最も宗教心に厚い人々に語りました。彼らは宗教にとりつかれていました。実際彼らの宗教から社会生活、市民生活、経済生活、彼らの家族生活、日常の彼らの生活から彼らの宗教を引き離して考えることはできませんでした。このことはイスラエル全体に浸透していたことでした。彼らはもっとも宗教心に厚い人々です。彼らはあなたがそうであるように非常に宗教心に厚い人々です。しかし彼らは神との真の関係はなく、キリストとの関係は何もありません。彼らは宗教的ですが何も持っていないのです。彼は誤った道の上にいます。パウロの言葉を借りると「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」(第二テモテ3:5)、なのです。彼らは自分を欺いています。

このことは今日において至る所であることです。至るところで、です。この人々は様々な方法で神とイエスにつながっているように見えますが、神のいのちに欠けていて、神の知識に欠けていて、救いに関するすべてに欠けています。イエスというつまづきの石の上にいて、すべてを良いように考える自分自身の魂を欺く大勢の群衆を、教会の中に見ることができます。この箇所から私たちの主のことばを本当に見ていくなら、意味するところは欺きとどのように私たちが向かい合うかということです。私が確信するのは、外に追い出されるべき欺きは私たちの外側のことではなく、私たちの中にある欺きについて語られているのです。私が確信するのは、この欺きは私たちの間にある欺きのことです。もちろんそれは悲劇の中の悲劇ですが、それは起こりうるであろうことであり、起こっていることであり、起こり続けることなのです。グレースコミュニティチャーチの席に座って「主よ、主よ」と言いますが、聞こえてくるのは「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」なのです。

主はその働きの最後にオリーブ山にて語られた様子がマタイ25章にありますが、それは花婿を迎える花嫁という最もすばらしいイベントにおいて、罠に陥った婚礼の祝宴を迎える娘たちについて語られています。たった一つのことが見落とされていました。彼女たちが必要だったのは内側にあるもの、すなわちともしびを照らす油で、彼女たちは内側を照らす霊的な光を象徴する油を持っていなかったのです。彼女たちは永遠に締め出され、たとえ外側の世界に罠が多かったとしても、彼女たちは用意すべきだったのです。

ここでショッキングなことを見ることができます。少なくとも私にとって22節のはじめのことばはショッキングで、「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。」そして13節のことばに結び付けることができるのですが、「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」ここでも「多い」と出てきます。それは宗教心はあるが迷いの道なのです。天国と言われている広い道へ行く人が多いことと同じで、しかしそれは地獄への道です。天国への道だと言われていた道を行く人たちが、その道の終わりに来た時に、天国への入口を見つけたと考えるのですが、しかしそれは、まさに地獄への入口であり天国への入口ではなかったと、そのようなことなのです。とんでもなくショッキングなことは、、、あなたが天国への道の途上にいると考えていたが、しかし、気づけば地獄にいるのです。

何が人々を偽りへとなだめすかしていくのでしょうか? 何がそのようにさせるでしょうか?どのようにしてそのような場所へ行きつくのか、それはあなたが、あなた自身を欺き、そしてそれに気付いてさえいないという現実です。ではいくつかのことを考えてみましょう。いくつかのこのことに関して考えるのに良いものがあります。まず初めに私が言いたいのは、薄っぺらい表面的な福音理解であり、それは、(本物もしくは自称の)キリスト教会全体に浸透している、真理である福音への間違った理解と、本当の救いに関する定義、救いの信仰への定義に関する間違った理解です。

私たちはそのような弱さ、浅はかさ、うわべだけを見る傾向、つまらないものにしてしまう傾向、情緒的、心理学的アプローチを持って福音に向かってしまい、ほとんどの自称クリスチャンの人々は偉大な教えである贖いに関する説明の意義を、あなたにもたらすことはありません。彼らはそれを知らないのです。知りたいと思っていないだけではなく、多くのケースで、彼らを教えている人々も同じように知っていません。そしてそのような人々は彼らの霊的状態に対する誤った理解をもっており、なぜなら、彼らは信仰による救いが何であるのかさえ知らず、救いに至らせる福音が何であるかを知らないのです。

そしてあなたに考えて頂きたいのは、その人生における多くの時間を福音の真理を明らかにすることに費やし、本当の悔い改めとは何かを明らかにし、本物のキリストへ信仰へと連れていき、そして、義認の教えがなんであるか本当の意味を教え、そのような人物はキリスト教会のヒーローであると言え、私はヒーローではないですが、足を踏み入れている最中で、いわば、人々のエモーショナルな土台に立っている罪を見過ごされ、心地良いベッドの中にいるその中に私は侵入し、私は不和を起こしているわけです。しかし、真理はいつでもそのようなものです。いつも、です。

あなたが本当の福音を語ろうとする時、教会が福音に関してあまりにも無知なので、教会を中傷したくなりがちです。今日は、あるクリスチャンの牧師が私に送ったある15ページに及ぶ、クリスチャンになることについての疑問を私にぶつけた内容を紹介します。あなたは今日のキリスト教会の中で、本当の福音を語り、世に対して語るよりも多くのものを得ることができ、あなた自身が励ましを得ることをお伝えします。

騙される理由1.福音が何か(福音の定義)を知らない

その最初の理由は、偽りへとなだめすかして導かれる人々は、彼らが福音の定義を知らないからです。彼らは教会(本物もしくは自称の)で座ることができ、クリスチャンのように振る舞っている牧師から教えを受けることができ、彼らはその置かれた状況で良い気分にさせられます。

騙される理由2.保証の意味を知らない

2番目に、その偽りに貢献していることは「保証」の意味についてであり、誤った「保証」に関する意味です。その考えというのは、もしあなたが神に対して良い思いを持ち、感情的に魅かれるものを神に対して持ち、それは愛と呼ばれているもので、もしあなたがイエスを信じ、あなたがイエスとつながったのなら、イエスに関する様々な働きに賛同し、イエスがなされる働きに組み合わされ、あなたがそうなりたいと望む、イエスの働きをし、その中に入っていきます。

これは断言できますが、あなたがこのような祈りをするならば必ずあなたは「あなたはクリスチャンですね」と言われるでしょう。あなたは認められるのです。ある時には祭壇の前に来て、このような祈りをすることで、ますますそのように認められていきます。別のケースではイエスに関する様々な集会(本物もしくは自称クリスチャンの)に行き、信仰的と呼ばれるものを行動によって示します。それらの事は人々に認められていきます。しかしそのほとんどはイエスによって良い気分になりたくて、人生を修正してほしく、人生をケアしてほしく、そしてその場所において「あなたは大丈夫です!」と断言されるでしょう。

あなたの人生においてあなたがイエスを求めてきたその長さ、イエスを信じていますと言ってきたその期間、そしてイエスに祈り人生を修正してほしいと祈ってきたその長さの分、正しいことを言い、イエスの名がついた各イベントにおいてエモーショナルな正しいレスポンスを見せてきたその長さ、その分だけ、「あなたは大丈夫!」なのです。実際、そのようにあなたは建てられていくでしょう。あなたは普通に断言されるでしょう。神はあなたを愛して、無条件で愛してくれると。そしてあなたが望むすべての夢、すべての願望はすべて満たされます。そしてあなたは今ここにいて、あなたの神への愛を示し、あなたが祝福を受けるであろうその場所に自らを置いています。

そして、福音の定義を欠き、すべての人々を良い気分にさせ願望が心を支配するように仕向け「あなたは、神がおられるので大丈夫です。」という保証をして、なだめすかしている人々は、もし彼らがイエスについて話されているところをうろつき回っていようものなら「神が君たちを正しいと言っている」と言ってたぶらかします。しかし彼らは正しくはありません。

騙される理由3.自己吟味がされていない

3番目には、誤った自己吟味です。ある人が「私は自分がクリスチャンがどうか確信が持てません。」と言った時、私はすぐに次のように答えました。「あなたがあなた自身をクリスチャンではないと感じるのは、あなたがクリスチャンではないからです。」 疑いの上に立ってい続けるよりも、もっともっと大切で要求されることは正直な自己吟味です。

もしあなたがあなた自身の救いを疑っているのなら、あなたがあなたの救いを疑う理由があるからです。道理にかなわないことであると認めることは、道理にかなっています。あなたには、あなたの天の御国への道を疑うために、あらゆる正当な理由が存在しています。あなたはあなたが信仰者であるのかを疑うためのすべての正しい理由があります。そして、あなたの人生のパターンを見るまで、そして疑う必要がないと良いように判断して、その上であなたが神を信頼せずに誘惑に屈服するなら、私は確信を得ることはできないでしょう。私はある事実に疑問を抱くことになると思いますが、それは、あなたが自分自身の救いを疑うのは、あなたが疑いを持つ何か理由があるからなのです。

しかしこの自己吟味はポピュラーではありません。事実、私が今あなたに話しているこの内容は、非常に多くのクリスチャン(本物もしくは自称)の教会で拒絶される内容です。なぜでしょうか? あなたはこの質問(自己吟味)のために召されたのではないですか? あなたが一体どのような人物であるか、あなた以外の誰が分かるというのでしょうか?

では、マタイ7章のイエスのことばから、この世代すなわち、神との関係において巨大な幻想の下にいる非常に多くのこのカテゴリーに属する人々に対する確証を得ていきましょう。これは私のメッセージではなく、偉大なる羊飼いのメッセージであり、私はただ、彼のメッセージを伝える下っ端の羊飼いにすぎません。

私たちは大きな恵みによって導かれています。人々が良い思いをしてほしいと願っています。私のようになってほしいと思います。人と衝突することは好きではありません。ですから私は人々の霊を、疑いの中に呼び込むことはしたくありません。私たちは大きな恵みによって導かれていて、罪によってひどい思いをしてほしくはなく、神の愛によって幸せを感じてほしいです。しかし、それは聖書的ではありません。第2コリント13:5には私たちが聞く必要のある言葉があり、使徒パウロが教会にあてた手紙で、そこはパウロが2年間過ごし、その教会はキリストを告白した人々がいて、バブテスマを受け、パウロによって教えられたコリントの教会であり、2回手紙が送られた教会で、他にもう一つありましたが、それは第一コリントの手紙の中でさらにもう2つの手紙というみことばが書かれています。この人物によって多くのことを聞かされてきた教会です。13章に来たときに、トータルで29章、彼らに宛てた2つの書簡の手紙を読むことになるのですが、それらは聖霊によって霊感され、みことばとして位置付けされたものです。そしてパウロは13:5において、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか - あなたがたがそれに不適格であれば別です。- 」

パウロは数年に及ぶ働きの後で、パウロからの使いによってこの教会にパウロの教えが送られてきて、キリストを告白して年月が経過した彼らにパウロは次のように言いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」 事実、このことは教会がたどる一般的な道であり、必ず起こり得ることです。このことは何を意味するのでしょうか?

いつもあなたが主の聖餐にあずかるとき、第一コリント11:26で「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」 ふさわしくないままというのは、本当に救われた者ではなく、もし偽りのクリスチャンでありながら、主の聖餐にあずかるなら主の死に対して罪を犯すことになるのです。「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」 主の聖餐にあずかるときはいつも自己吟味の機会となるのです。もしあなたがそうしない、そうしたくないならば、あなたはあなたが心地よいと感じるエリアに留まっていることになり、あなたは自分自身を欺いている可能性があります。

騙される理由4.定着してしまった宗教的活動

4番目に人々を欺きに誘いこむのは、定着した宗教的活動です。多くの自分をクリスチャンだと言っている人々がいる教会に所属することであったり、自称か本物か、あるいは半クリスチャンのような人物の文学を読むことであったり、神について話をしたり、今日多くの人々が感じているような霊的な体験であったり、バイブルスタディーでさえもそうであり、クリスチャン組織の一部に属することです。このなだめすかされてきた人々は偽りに入れられており、その偽りとは救われているということと全く等しい偽りです。

私のクリスチャン人生は、宗教的な活動の中にいる多くの人々でいっぱいです。このクリスチャン組織について考えると、彼らには終わりがありません。クリスチャンの出版物、本、音楽、考えられる全ての種類の文学、テレビ、ラジオ。終わりがありません。この活動に一体どれほどの人々が巻き込まれているのでしょうか?ローマカトリックに所属する教会について考えると、彼らは伝統的な教会からすべての教会に至るまで、すべてクリスチャンであると認めていて、カルトもそれに含まれ、リベラルなプロテスタント、宗派もそうであり、すべての違う種類の教会を認めています。教会は至るところに現れ、この考え方に立つなら、あなたは今日、自分自身の教会を始めるべきであるとなります。あなたは召されるのではなく、賜物でもなく、訓練されてでもなく、任命されてでもなく、あなたは起業するように始めたらよいのです。このような教会が至るところに現れ、リーダーのパーソナリティーによって教会が再形成されていきます。そして人々を巻き込んでいきます。

ちょっとしたことがあって、ある人が見せてくれたのですが、どなたでも私の町のある場所に来るとそれを見ることができます。ニューテクノチャーチという教会があって、特徴的なのは「ブレークダンスジーザスボーイ」であり、ブレークダンスジーザスボーイはニューテクノチャーチに属しています。多くの人がそれに巻き込まれています。彼らに会えば、彼らが言うのは、あなたが何かを持ってくるなら、たとえばラップのアルバム、ターンテーブルといったものを持ってきて、そしてあなたはDJになることができると言い、そのような状況の中ですが、一体何が起こっているでしょうか?ブレークダンスジーザスボーイにつながっていくような種類のすべての人々を巻き込んでいきます。笑ってしまいますが、それは馬鹿げたことであり、愚かなことでありますが、しかしそれは悲劇の中の悲劇なのです。宗教的活動が至る所、至る所で行われています。

騙される理由5.公平取引アプローチ

5番目に、人々を偽りへと誘い込むものは、私は次のようにこのことを呼びたいのですが「公平取引アプローチ」です。公平取引アプローチ。これは典型的なものです。大抵の場合次のようにスタートしていきます。「私は基本的に良い人間であり、神を信じることは良いことであり、悪い人間に対してあなたは良い人間であり、24時間、ほぼ全ての時間において暴力的犯罪を犯していないのですから。」このような事から「公平取引アプローチ」が働いていきます。

すべて時間によって積み上げられていきます。どのくらいの時間、私は犯罪を犯さなかったでしょうか?たとえ今日がまさに私が犯罪を犯した日だとしても、多くの犯罪を犯さなかった他のたくさんの日々がありますので、そうです、私は基本的に良い人間なのです。もしくは一ヶ月のうちにどのくらいの時間をだれかレイプしたのか、とも言えます。時々? しかし多くの時間はそうではないので、私は基本的に良い人間なのです。これが「公平取引アプローチ」の仕組みです。彼らは時間割表を作り自分のやった事柄を並べて見ています。私たちは何か良いことを持ってきて、私たちの罪とのバランスを取ろうとしがちです。「ほら!見て!私は家族を養っているじゃないですか! 家族を養っているのです!!」 はい、知っています。時折、頭がぐらついてしまうことがあるのですが、次のように言ってくる人もいました。「私は妻に対して信仰的ではなく、そして税金をごまかしているのですが、しかし私はあなたに言いたいことがある。私は子供を連れて、知っての通り、土曜日のリトルリーグに行くのです。私は良い父親です。」そうなんですか!「神を信じて歩んだ地上の人生の終わりの日に、神は私を天の御国から追い出さないだろうし、私はイエスを信じている。私は基本的に良い人間です。」

当然ながらこれは最も大きな宗教的な嘘です。神が不敬虔な者を義と認めて下さるということを忘れてはいけません。ですからそれは、あなたは不敬虔ではないと認識しているようですが、あなたはすでに不敬虔であることを全く知っていないのです。しかしあなたがこの「私は不敬虔である」という知識に至るなら、その時にはじめてあなたが義とされる希望があります。しかしまだその時に至ってないのです。このことは非常に多くの人々に働きかけています。いくらかの悪いことがそこにあり、そしていくらかの良いことがそちらにある。バランスが取られます。「私は良い側にいるので、私は大丈夫でしょう。神は確かに私を天の御国の外に追い出すことはなさらないはずです。」

他にもこのようなリストを挙げることはできます。それらは人々に間違った保証の意味を与えています。よく知られた聖書的モラルがあり、良く親しまれています。彼らが言うのは「ほら!私は聖書が言っていることを否定しないし、私は聖書のモラルを信じています。私は同性愛者でもなく、結婚に反対する者でもなく、家族を否定する者でもありません。私はこれらに同意しています。私は性的な行為は夫と妻という結婚された者の間だけの事だと考えます。私はモラルを持っていますし、私は間違いなく天の御国への道の途上にあります。」

非常に多くの人々がこのようなカテゴリーに当てはまります。例えば、モルモン教があります。彼らは、これが命への道だと言います。しかし、必ずしもそうではありません。私は彼らがみことばをあえて曲げようとしているのか、そではないのかについて確信はないです。「見てください、私は聖書に関して何も議論は持ちません。実際、何を言っているのかも知らないですし、ただ思うのは、これらのことは聖書が勧めることであって、私はそのためにいるのです。」

これらすべてのことは大きな偽りであって、彼ら自身の救いに関して何ももたらすものはありません。何も、です。真実なことは、人々は惑わされ、騙されて、狭い門に入ることはできません。狭い門に入ることに失敗するのです。これは何を意味するでしょうか? 罪からの悔い改め、罪の告白、主イエス・キリストへの服従、主のみことばへの砕かれた魂、謙遜、従順、といったものが無いのです。マーチン・ロイド・ジョーンズは次のように言っています。

「私たちの祝福の神が望んでおられることは、その全ては、私たち自身、みことばが私たちの心に示している(召している)事です。神は内側の人、心、私たちの服従を求めておられます。単なる告白や、熱心や、熱中や、私たちの働きや、その他様々のものではありません。私たち自身を求めておられます。私たちの捧げものを求めておられません。私たちの犠牲を求めておられません。私たちの従順を求めておられません。私たち自身です。正しい事を言うのは人には可能です。忙しくしたり、アクティブになったり、明らかな素晴らしい結果を成し遂げたりしますが、しかしその人自身を捧げていないのならどうでしょうか。それは最終的に最も大きな侮辱を神になしていることになるのです。」

最も大きな侮辱とは何でしょうか。ロイド・ジョーンズは次のように言っています。「『主よ。主よ。』と言い、熱心に忙しく、アクティブに、真実な忠誠をもって服従し、私たちの人生を支配しておられると主張し、私たち自身の意見や議論をみことばよりも優先させ、何をしたか、どのようにやったかということを優先させることです。これが最も大きな神に対する侮辱です。」

偽りの種類1 うわべだけ

偽りにはいくつかのカテゴリーがあります。「うわべだけ(表面的)」なことがあります。子供のころのある時にキリストを受け入れて、彼ら自身で自分のことをクリスチャンであると言う人達がいます。そのようなフレーズをよく耳にします。あるいは神を信じたのでしょう。彼らは無知であり、彼らは約束を受けていません。私はこのようなことを「うわべだけ(表面的)」と呼びますが、彼らはクリスチャンとして彼らの人生の様々な局面でうわべを見せかけて振る舞い、あるいは両親に強制的にそうさせられた(バブテスマなど)のかもしれません。彼らのこれらのことから神との正しい関係を持っていると考えています。しかし彼らはうわべだけの類のもので、すべては過ぎ去った出来事です。彼らはそこに安んじています。彼らはそこにとどまっています。彼らは彼らの人生に必要なものを集めて、そのことに注意を払っています。そしてクリスマスやイースターには彼らがクリスチャンのように振る舞うことをあなたは見ることができます。彼らがイースターに教会に転がり込んできて、あなたは彼らとクリスマスにも来るようにと待ち望むでしょうが、あなたはそれ以来二度と彼らをみることはありません。

偽りの種類2 毒麦

うわべだけという理由だけではなく、偽りに巻き込まれている(首をつっこんでいる)人たちもいます。歴史におけるすべての教会を通して彼らは存在します。イエスは彼らのことを麦の中から生えてきた毒麦と呼んでいます。彼らは教会についてよく知っています。教会のいのちについて知っており、教会のいのちの中にいます。聖書についてわずかに知っています。聖書の物語を知っています。あなたにいくつかの聖書に関する物語を話すことができるでしょう。

少しばかりの神学を知っていて、しかしそのために非常に危険な存在です。本物の謙遜はなく、砕かれた魂はなく、敬虔もありません。ただ彼らはそこにいます。彼らは、巻き込まれて(首をつっこんで)います。彼らは物事を深く考えようとはしません。彼らは欺く者になろうとしているわけでもありません。偽りのクリスチャンになろうとしているわけでもありません。しかし彼らは本当にこの真実を知ってはいません。彼らは教会の活動、考え、といったものに協力していて、、ちょっと待ってください、それは、私と共にいる人々のことですね、、それはまさに私の所属している場所のことです。

偽りの種類3 偽善者

そして、あなたはうわべだけの者であり、そしてそこに巻き込まれて(首をつっこんで)います。そして3番目の特徴は、「偽善者」であることです。彼らは、彼らが信仰者ではないことを知っています。彼らは日曜日に教会に姿を現し、そして、外にあるもといたポルノの世界に戻りたくて仕方がなく、禁じれらた関係や、不道徳な悪の行いに戻っていきたくてたまらないのです。この巻き込まれている(首をつっこんでいる)という状況で、彼らは、彼らの道徳を働かせようとし、彼らのモラルを働かせようとし、聖霊の助け無しに何とかしようとし、なかなかタフな人たちですが、実際のところそれは不可能です。しかし偽善者達は彼らがなれはしない者になろうとすることを諦め、そして教会に来て彼らの姿を見せることで、そして彼らは本当に誰であるかという事実から解放され、本当の自分ではない自分のようなふりをします。

これらの人々は騙されていることに気づいているでしょうか?私が思うに、おそらく本当に騙されているので、彼らはこのことを知ってはいないでしょう。私が思うに、この巻き込まれている(首をつっこんでいる:the involved )という状況は、彼らは知らないです。私が思うに偽善者たちの多くは、、彼らは騙されているのではなく、彼らは騙しているのです。彼らが何を得ようとしているのか、私には分かりません。

さて、あなたはこのように、この教会にいますが、もしくはほかの教会に属しているかもしれませんが、誰かが「助けてほしい」と言ったとします。そうすると「わかりました。ここにいくつかの毒麦があります」と言って、そこにいる人々を紹介しているのです。彼らはこのようなことを教会の中で行っているのです。彼らは巻き込まれて(首をつっこんで)います。

彼らはこのようにしてクリスチャンらしいことをします。他にも単発的に教会に姿を現す人たちがいて、彼らもまた、うわべだけのクリスチャンです。そのようなわけで私たちは、人々に明らかな影響を及ぼす、このよく出来た見栄えの良い偽善を見てきましたし、彼らはずっとずっとそのような事を行い続けています。どのようにしたら、この人々を助けることができるのでしょうか?彼らのために、彼らの顔の仮面をはぐにはどうすればよいのでしょうか?何をすれば良いとあなたは思いますか?騙されている人が、どのようにして彼自身が騙されているのか。騙し、騙されている誰かに対して、どのようにフォーカスしていけばよいでしょうか?

フォーカスすべきポイント1 「繁栄」福音

いくつかの私からの提案があります。ところで、メッセージは今、やっとイントロダクションです。さあ、これからが本題です。あなたが誰か騙されている人を探している時、エモーショナルなものや、祝福、体験、癒し、御使い、信仰の副産物として興味を駆り立てるあらゆるものを求め続けている人達。しかしキリストの中にはいない人達。彼らはキリストにある栄光、誉れ、不思議、麗しさ、偉大さといったものに心が奪われるようなことはありません。彼らは、キリストを誉めたたえること、愛すること、仕えること、従うこと、服従すること、高く上げること、宣言すること、礼拝すること、告白することといったことに心が捕らわれるようなことはありません。彼らはただ、神に付いてくる副産物、すなわち、祝福を下さい、霊的な体験を下さい、霊的に高く上げて下さい、心地良い感覚を与えて下さい、癒しを与えて下さい、繁栄を与えて下さい。

興味深いことですが、数年前までは、「繁栄」福音は、より大きなペンテコステムーブメントのほんの一部にすぎませんでした。しかし今ではムーブメント全体を飲み込むほどまでになっています。このすべてのムーブメントは神が生み出すものを与ようとしていると断言できます。キリストから出たもの、しかしキリストではない。彼らはキリストを探し求めてはいません。キリストを持つことで、病気になるか、良くなるかが決まり、キリストを持つことで、裕福になるか貧しくなるかが決まるという考え方です。キリストを持つことで、生きるか死ぬかが決まります。私の罪のためにキリストを持ち、私の導きのためにキリストを持ち、私の力のためにキリストを持ち、私が王であるためにキリストを持つのです。何かを得るかどうかなんて、キリストを持っているならどうでもよいことです。

これが今日、あなたが見聞きしていることです。実際の所、あなたがこのようにメッセージするなら群衆は消え去るでしょう。ですからあなたが騙されている人を探そうと思えば、副産物ばかりを求めていて、キリストを探し求めることは決してしない人々を探せばよいのです。ジョン・パイパーは次のように言っています。「福音は罪人への『オファー』であるはずはないが、罪人が要求ばかりしていくことは自然なことではある。」生まれながらの人は何を要求していくのでしょうか? 良いフィーリング、祝福、癒し、幸福感、豊かさ、お金、成功、自分のために働く御使いの軍団、すべての生まれ変わってはいない人々の望む、自然なことです。新しく生まれてはいない心で、聖霊の働きによるものではありません。福音は罪人が望んできたものを約束していはいません。福音が罪人に約束しているものは、義、聖さ、赦し、天と全ての支配、そしてキリストです。では、キリストに対するこの世界のすべてが持っている態度とはどのようなものでしょうか?彼を憎んでいます。これが私たちが学んでいるクリスチャンが迫害される理由です。あなたはこのすべての人々に憎まれますが、それは私のゆえに、です。彼らは私を憎んでいますし、彼らはあなたを憎んでいます。生まれ変わっていない人は福音となんの関係性もなく、その福音とは、地獄への途上にあるどうしようもない罪人を再定義し、救いを必死に求める者へと変えていきます。そして救いを得たとき、彼は彼自身を捨てて、キリストにすがり、つき従っていくのです。
ですから、彼らは贖われていない彼らの状態にとどまっていたいのであり、キリストよりもむしろすべての副産物を求め続けているのです。

フォーカスすべきポイント2 いろんなことを任される人達

2番目に、みことばよりもむしろ教会から多くを任せられている人々、より多くのことを(自称か本物かは分かりませんが)教会から任せられていて、宗派、ムーブメント、グループ、それらのものからであり、それらはまさに社会的な活動です。純粋な意味における社会性ではなく、それはいわば霊的な鼻歌(ハミング)のようなもので、「霊的な鼻歌(ハミング)」とは何か知っていますか? それは神に関することに首をつっこんでいい気分になることです。そしてあなたは次のようにこの人々が言うのを聞きさえします。「さあ!来て、私たちの所に来て下さい!私たちの中に神がいて、いろんなことが行われています!」それは神の社会的混ぜ物といった類のものです。彼らが任されていることというのは、神のみことばに関することではありません。どのようにすれば神に関することを任されつつ、しかも神のみことばに対してはそうではないことがあり得るのでしょうか?どのようにして彼らは次のように言うことができるでしょうか。「ええ、まさにその通り私は本当に神とのつながりを求めています。」わかりました。あなたは神とのつながりを求めているのですね?ここに神が言われたことがあります。あなたの罪を告白し、悔い改め、神の御子にすがり、それはあなたの救いの唯一の希望としてです。それは主が最初に言われた言葉です。そして、もしあなたがこれらのことに同意しないなら、あなたは永遠の地獄へ行くことになります。

それではあなたは神が次のように言ってくださることを聞きたいですか?おそらく私たちはここからスタートできますし、この問題と向かい合うことができます。「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)このとき私たちは問題に向かい合うことができます。「わたしのもとに来て、自分の父、母、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」私たちは一体どのくらいの犠牲が必要なのかを考えていきましょう。

少しお待ちください。主はこれらすべてによって何を願っておられるのでしょうか?神の律法は神の律法であり、神の聖さというご性質をあらわしていて、神の律法が変わることはなく、神の律法がもたらすモラルは、あなたの情熱になっていきます。それはどういうことかと言いますと、あなたがこれまで愛していたものを、あなたが憎むようになることです。あなたが憎んでいたことの全てをあなたは愛すべきなのです。あなたは次のことの準備ができていますか?組織、場所、グループからいろんなことを任されている人々、神のみことばを知ることから遠く離れている人々を探して、そして彼らが神のみことばに従えるようになることを神は願っておられるのです。

私は何か幻想の下にはいません。私はなぜ人々が教会に来るのかを知っています。あなたがなぜここにいるか知っています。あなたがここにいるのは、真剣に神のことばを求めてここにいるのですよね?当たっていますか?犬かポニーのショーを見に来たわけではないのです。見てください、毎週私はこの講壇に上がり、そして全く同じことをします。先週もしました。この教会でバラエティーの豊かさなんてものはありません。しかしあなたはバラエティーを求めて来たのではありません。今週はジャグリングで、来週は踊る馬といった感じではありません。あなたはエンターテインメントを必要としてはいません。ロックバンドでもありません。あなたがここに来たたった一つの理由、それは、神が言われたみことばのことです。それがあなたがここにいる理由です。私はそのことを知っています。私たちは皆知っています。なぜ私たちがここにいるのかを。

ある時、人々は次のように言います。「知っての通り、私たちはあなたの教会にしばらく来ましたが、ここに来るのに15分かかりました。それで、私たちはもっと近くの場所にある教会を見つけました。」 そうですか!?その教会では聖書を教えていますか?「ああ、それは、そう、あなたのようには教えていません。しかし、私たちの家から近いのです。」 なるほど、そうですか。あなたの住んでいる場所に関する問題は、解決するのにさほど難しいことではないですよね?

ここに来る人々には、ここに来るためのたった一つの理由があり、そしてここに来ない人達の、ここに来ないたった一つの理由は、常に自分の内側が暴露されることを望んでいないからです。もし私が神のことばを聞きたくなければ、私はここに来たくはありません。一回のメッセージを聞いて、私は次のように言うでしょう。「もう二度とここには来ない。」見て下さい、もしあなたが神のことばを聞かないならば、そして、神のことばに興味が無いならば、この場所で何も起こることはないでしょう。ですから、あなたがニューウェーブやショーを待ち望んでいたとしても、ここにはそのようなものはやって来ません。

フォーカスすべきポイント3 学術的興味

三番目の種類の人達というのは、見れば、この人たちが本当にはき違えているのではないかと思ってしまうでしょう。彼らは、個人的な聖さよりも「学術的興味」というものを優先し、神学において多くのものを巻き込んでいまる状況です。言いたくはないのですが、しかしこの国の神学校は教授でいっぱいになっていて、彼らはみことばに対して学術的興味を持ち、神学に対して学術的興味を持っていますが、なぜ神のことを何も知らないのでしょうか? ですから彼らは聖書が意味するのは、おそらく聖書が意味する事ではないと考えていて、たとえ学者のような人であろうと生まれつきの人間は、神のことを理解することはできないからです。

神学校がリベラルの教授でいっぱいになったり、神の福音を正しく理解していなかったり、創世記を正しく理解していなかったり、旧約聖書を正しく理解していなかったり、その他のどんなものも正しく受け取れていなかったり、そのようなことがあっても、それは不思議なことではなく、なぜなら生まれ変わっていない人々は、たとえどんなに彼らが教育を受けようと、神学の訓練を受けようと、正しく受け取ることができないのです。なぜなら第一コリント2章が言うように、ただ聖霊なる神が神のみこころを知っておられ、ただ聖霊だけが理解を与えて下さるからなのです。

ですから、個人的な聖さと個人的な礼拝ための神のみことばへの興味というよりは、単に神学に学術的興味を持っている人達なのです。知っての通り、この2つのこと(聖さ・礼拝)はみことばにあることです。聖さは私たち自身の心に働くみことばによるものであり、洗い、聖めます。まるでナイフのようであり、ヨハネ15章では、「刈り込みをなさいます。」と表現されています。皿を洗う水のようです。2番目の要素(礼拝)については、罪を示したり私たちの心を洗い聖めるだけではなく、真実な信仰者の心を持ち、生きた礼拝を捧げることができるようになります。すべての節は、神を知る新しい知識へとつづきます。私は、どのような節であってもじっくりと見ていくならば、すべての節が私に天使の声による神への賛美と、新しい理解によって得られる新しい見解が得られます。

では何のために私はみことばを引き出して来るのでしょうか?それは、私自身の人生において、個人的成長と聖さをもたらすものであり、そして、私の礼拝というものをより引き上げていくのです。私は学術的興味によって聖書を読んだことはありません。決してそのようなことはしません。

フォーカスすべきポイント4 一つの箇所を強調

その他に、騙されている人で、神学のある一つのポイントを突いて来る人です。私はこのような人々と人生を通して出会ってきました。彼らは一つの非常に誇張されたポイントを持ってきて、そして、そのおかしい見解の類のものを解説する講壇を求めています。そして彼らは私に手紙を書いてきて、このような人たちのことをご存知ですよね、彼らは非常に小さい字で手紙のすべての側の隙間を文字で埋めて、そして封筒のすべてにも何か書いています。そして彼らが言うすべてのことは、同じポイントを言っています。彼らが求めているのは、議論の場であり、エゴを満たすために駆り立てられています。あなたは本物のクリスチャン達を見つけると分かることですが、彼らは奇妙な神学に駆り立てられているようなこともありませんし、むしろ、オープン(心を開いている)でバランスのとれていて、それは、彼らが固く握っている、知恵、知識の宝といったもののためであり、それらはクリスチャンに見られることです。

フォーカスすべきポイント5 大目に見過ぎる

その他にもう2つありまして、自分を欺いている人達を探そうとするために見分けることは、恵みの名のもとに大目に見過ぎていることです。恵みの名の下に、大目に見過ぎています。言い方をかえるなら「忍耐の欠落」です。彼らの言い分は、本物のクリスチャンなら起伏はあり続け、落ち込む期間が短いと認められる、そのような事が継続的にあり、私たちは常に罪を告白するものであり、それゆえヨハネ1:1であるような証を与えられ、そしてその証とは、どんな時にでも赦されることです。

罪に対して行き過ぎた寛容さを示す人達を見つけたなら、彼らはこのような方法で、彼らのあらゆる行い(振る舞い)の権利を守ろうとし、恵みのゆえに、行き過ぎた恵みのゆえに、大目に見過ぎる恵みのゆえにであり、彼らは忍耐が欠落していて謙遜の優劣を測り、あなたは騙されているだれかと向かい合っている可能性が高いことなります。

フォーカスすべきポイント6 神を得るのは自分のため

最後にもう一つだけ、私たちはこれまで話してきたことに加えて、神を見たいと願っている人達、すなわち彼ら自身の結末を意味するのですが、そのような人達を探したいときにフォーカスすべきポイントのリスト6番目に入れてほしいと思います。私は神を得たいのです、それは、すべての事のためであり、したい事であり、全ての計画のためであり、すべての夢をかなえるためであり、すべての野望を成し遂げるためであり、ここに来たら神があなたを助けます! これはまさにジョエル・オスティーンが言っていることです。彼は異端です。あれはクリスチャンのやる事ではないです。クリスチャンのあるべき姿ではありません。そして、あの教会と呼ばれている所は、教会ではありません。それは異端です。神は魔法のランプの中に入ったジーニーのように、あなたがそれをこすると飛び出してきて、「ジャーン! 3つの願いを言いなさい。」というような神ではありません。それがクリスチャンではありません。それは、真実なクリスチャンの姿を適切に表現していません。あなたはこのような人々、すなわち神を見ることになる、彼らの結末を見ることになるこの人々に助けを与える必要があります。

悲しいことに、このように生きている人々は、教会のまわりをうろついていまして、それは教会と呼ばれている所であったり、時には本物の教会であったりもしますし、ある時には、この私たちの教会であったりして、彼らは破滅への道の途上にいます。彼らは大勢の中にいて、そして「主よ、主よ、私たちです!」と言うのですが、聞こえてくるのは「わたしから離れていけ、わたしはあなたを全然知らない。」となります。この人々は天の御国に行くつもりなのですが、そのようにならない人達です。

私は、これらの内容をご紹介しました。あなたが馬鹿げたことだと考えてくれるなら、私にとってそれは喜ばしい事です。それでしたら、未来に希望があるからです。私たちはさらに今日の聖書箇所にもう一度戻り、愚かで空虚な言葉の数々に対する、最も挑発的でパワフルなイエスの教えをさらに深く学んでいきます。(聖霊の)所有無しの告白、悲劇の中の悲劇。しかし、今、私たちは主にひれ伏し、主が今晩私たちに与えて下さったことのために祈りましょう。

 

 

※ ジョン・マッカーサー師のメッセージを翻訳したのですが、私の英語力では非常に難しい点が多々あります。実際の表現とは違う間違っている箇所はあるかと思いますが、どうぞご容赦下さい。

 

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