主のみことばに対する「聞き方」

How to Listen to the Lord
Mark 4:21-34 December 13, 2009 41-20
http://www.gty.org/resources/sermons/41-20
メッセンジャー:ジョン・マッカーサー師(グレイスコミュニティチャーチ牧師)

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それでは、マルコ4章をお開き下さい。今朝はこの箇所のみことばからじっくりと見ていきたいと思います。21~34節を見ていきます。これまでマルコの福音書を学んできて、この箇所は一つの区切りとしてみなすには適切で、今朝はこの箇所を見ていくのですが、私が脱線した際にはどうぞ私の尻を叩いて頂きたいと思います。では、マルコ4:21~34節。

ここでより重要なのは、私たちの主が地のたとえを用いられたことです。主は地を2つに区別されていまして、まず何も生み出さない地、それは堅い地、すなわち岩の地であり、そして雑草といばらの地です。これらが示すのは福音の真理を聞かず、何も応答しない人達です。

そして主が話された3つ目の土地は良い地で、30倍、60倍、そして100倍の実を生み出すことができます。そしてその時、主は何も生み出さない地と、真理を聞き生み出すことのできる地の違いについて話されていき、真理を聞くとは、それを固く握りそれを信じ、そしてそれは信者が未信者から離れていくことでもあります。未信者は神のことを理解することができず、クリスチャンが持っている福音を従順な心をもって聞く耳で、聞かない人達のことです。

ですから次のように言えます、私たちに与えられた最大の恵みの賜物は、勿論、救いです。しかしこの救いはみことばによらなければ決して知ることのできないことです。ですから実際的に言うなら、最大の恵みの賜物は神の啓示です。最大の恵みの賜物は、神の啓示です。神の真理より重要なものはありません。あなたは真理を持つべきであり、それは救われるため、聖められるため、そして栄光の望みを持つためであり、義によって矯正されるためです。ですから私たちが与えらている最も偉大な事は、みことばです。このみことばは、神の啓示です。

この事と同様に、真のクリスチャンが持つ明確な区別がつく特徴は、彼らはみことばを聞きます。彼らは聞きます。彼らは信じます。彼らは愛します。彼らは従います。これはクリスチャンの明確に区別できるものです。過去にした行い、祈り、教会の出席期間がクリスチャンを区別できるポイントではありません。真の信仰者を区別できるのは、神の真理に対する応答です。彼らの心にそれを見つけることができます。彼らはそれを得ました。彼らはそれを理解しています。パウロは次のように言います。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。」(第1コリント2:14)しかし一方では、「私たちには、キリストの心があるのです。」と言っています。私たちは神の真理を固く握っています。私たちは真理を理解しています。私たちは真理を愛します。私たちは真理を吸収します。私たちは真理を信じます。私たちは真理を宣言します。

ですから、真のクリスチャンであることの印を見分けるには、彼らが真理を聞き、信じているのかということで分かります。私たちの主はそのことを多くの場所において明らかにしておられ、一つだけご紹介したいのは、ヨハネ10章です。この偉大なヨハネ10章は、私たちの主がご自身を良い羊飼いと呼ばれ、ご自身の羊との関係について示しておられます。その違いが明確になる印を表す関係とは何でしょうか?ヨハネ10:3では次のように言っています。「羊はその声を聞き分けます。」4節では「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえってその人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」真の信仰者は決して偽りの教師についていくことはありません。彼らは彼らの主人の声をよく知っているからです。

16節へ行くと「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊(異邦人を意味します)があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」26節では、「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」真の信仰者である明確な違いを表す特徴は、みことばによって導かれる神の声を受け入れることです。これが主がこの箇所で言われていることです。

これはまさに良い地のたとえにあるテーマです。3つの種類の地があります。彼らは信仰を持って聞くことはありません。うわべだけであり、思い出して頂きたいのは堅い地は感情的な反応を示し、いばらの地は最初だけ反応します。しかし結局これら両方が証明していることは、うわべだけであり、浅はかであり、実を実らせることはないのです。

しかし良い地、すなわち明らかな区別を持っている良い種類の地は、みことばを聞き、みことばを堅く握る人たちです。彼らは30倍、60倍、そして100倍の実を結びます。ここで言われている「豊かに実を実らせる」の意味は福音宣教における意味です。御霊の実について言っているのではなく、しかし同じように御霊の実にも満たされます。これらは天の御国を構成する一部です。私たち信仰者は皆、エペソ2:10によれば、基本的に良い行いをするように定められています。もしあなたが望むなら率先してこれらの良い行いをなし、人々の人生にインパクトを与え、それは福音にとって有益なことです。種を蒔き、水を与え、私たちは単独ではなく集団的にこれらの事をなしますが、これまでの歴史においてなされた証は多くの人々をキリストのもとへ導く個人の努力を神は用いられ、多くの人々を福音を受け入れて敬虔な生き方へと導くものです。ですから私たちはこの働きに入れられました。豊かな実を実らせる明確な区別のある信仰者は、他者をキリストのもとへ導き、また神のみことばを聞く者達です。これらのことから一つのテーマを見出すことができ、たとえて言うなら、太陽系の星たちが一つの特定のテーマ(太陽)を中心に回っているかのようです。

23節へ行くと、そこから始めることができますが、「聞く耳のある者は聞きなさい。」主は9節でもこのように言われています。これは区別的な要素について述べられていて、だれでもが神の真理を理解するわけではなく、だれもがそれを得るのでもなく、だれもが信じるのでもなく、堅く握るのでもなく、愛するのでもなく、従うのでもなく、勿論、真のクリスチャンであるならこれらの事をします。ですから主はこのように言っているのです。「わかりました。今は真の信仰者へ話していきましょう。」何があなたを区別していますか?あなたは聞く耳を持つべきです。

あなたの救いに対して何が起こっているのか、それは、主があなたの霊的な耳を開かれたということです。そうではないですか?そして突然、神のことばが新しい意味を持ち始め、あなたはみことばに対する飢え乾きが起こり、乳飲み子が乳を求めるようにみことばを求めていき、ペテロはそのように表現しています。あなたは聞き、それを得て、理解しています。ですから聞く耳のある人達の中にあって、私たちの主が「聞きなさい。」と言われることを聞くのです。

そしてとても重要な24節に来ます。「また彼らに言われた。」“彼らに”というのは弟子たちのことであり、群衆から区別された使徒のことです。13節に戻ると「そして彼らにこう言われた。」あなたはこの“彼ら”とは誰ですかというかもしれませんが、10節で「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえを尋ねた。」とあります。

ですから、私たちは聞く耳のある者です。そしてこの箇所で言われているのは、私たちに主が説明をされているのです。この24節に鍵となるものがあり、「聞いていることによく注意しなさい。」ここはとてもとても重要な箇所です。

ギリシャ語の原語を見ていくと本当にシンプルな表現になっています。実際のところ英語への翻訳は少しばかり誤解されているような訳になっています。実際のギリシャ語では、 Blepete ti akouete となっていて、2つの動詞が副詞を挟んであり、初めの動詞は肉体的な視界のことを言っていて、2つ目は認識、理解力といったものです。 ti は、who とか what のような意味で、「聞いたことを理解する」となっています。別の言い方をするなら、よく注意して神のことばを聞きなさい、です。これです、これがこの箇所の意味する所なのです。あなたが聞いていることを理解しなさい、これがギリシャ語の原語の意味となっており、聞いていることを理解し、思慮深く注意深く神のことばを理解することです。

シンプルなフレーズです。精神的な理解について主は私たちに言われているのです。この箇所では心や魂といったことについて語られていて、主は私たちにそのような理解を得ることを望んでおられるのです。私たちはまさに正確に聞くことで、教えを受けようとしています。主から聞いていることを心ではっきり理解すべきなのです。理解を得るのです。その意味を完全に理解し、その深さと豊かさを理解するのです。あなたは神の啓示を受ける特権を与えられていて、神の真理を受ける特権を与えられているのです。あなたが与えられている神の御国に関する奥義は世には隠されていて、彼らはあなたが与えられている完全な理解を決して得ることはありません。これは途方もない特権であり、あなたは本当に理解して聞いているのです。

良い聞き手になるために

ではどのようにすれば私たちは良い聞き手になれるのでしょうか?どのように神のみことばを聞くべきなのであり、特に私たちの福音伝道に関する教えについて書かれた箇所で、私たちがこの世に置かれた最も重要な目的は、私たちの人生を通して神を証するということなのです。私たちはこのように理解しています。それでよろしいですか?どのようにして福音伝道への召しについて聞くべきなのでしょうか?ここに4つの良い聞き手の特徴があります。4つの特徴です。まず1つ目。私たちは従順な態度で聞きます。2番目に正しく認識して聞きます。3つ目に従属的(依存的に)に聞きます。そして4つ目に、私たちは確信をもって聞きます。私たちがどのように聞くべきかこれらのことが示されています。

ルカ8:18において、平行箇所があり、そこでは「聞き方に注意しなさい。」とあります。これが主が言いたかったことなのです。あなたは霊的に良い聞き手になる必要があるのです。あなたはどのように主のみことばを聞いていますか?主のみことば、主の託されたこと、そして、主の召しに対してどのような聞き方をしていますか?

1.従順に聞く

まず初めに私たちは従順に聞くべきです。従順にです。真理を受け入れることと従順と同じ意味をなしています。言い換えると、従順な応答は、真理と同じ意味だということであり、主はそのことをはっきりと21、22節の短い箇所から語られていて「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」シンプルなことであり、明らかなことであり、道理にかなったことです。

別のことばで言うなら、主が言われたことは、もしあながに光が与えられたならそれを輝かすべきである、ということです。そうではないですか?それとも少し前のたとえに戻るなら、もしあなたが種を与えられたなら、あなたはそれを蒔くべきです。このことは、光があたえられたなら不可欠なことなのです。弟子や使徒達にこのようなことを語っておられます。

ところで21~34節はつながりの無いたとえ話をランダムに集めたのだと言う注解者が多くいて、これらはイエスが言われたことをマルコが全てまとめてここに入れたのだと解釈しますが、それだとつじつまが合いません。率直に言うなら、福音においてこのようなことが起こることを信じることは私にはできません。私が思うに、筆者には明らかな聖霊の導きがあり、水晶のようなクリアで明快な意志がそこにはあり、ランダム(適当)なものは何も無く、勿論この箇所だってそうなのです。私たちは従順に聞くべきであり、これらは光から来たもの、真理から来たものであり、私たちはそれを世に輝かせるという責任があるのです。

「あかり」はここで言われているのは、「テラコッタランプ」のことです。小さい粘土のランプで、人々は当時このようなランプを使っていて、取っ手のある受け皿状の形をしていて、小さな取っ手のついた水差しのようでもあり、油を入れることができ、ろうそくの芯を入れ、それを灯し、そうすることで家の中を明るくします。そしてそれを燭台の上に置き、床の上にも置くし、壁に燭台専用で備え付けれらた棚に置くこともできます。これがここで言われている「あかり」のことです。明るくするために「あかり」を用います。だれも枡(NASB:basket、新改訳聖書:枡)の下にあかりを置く人はいません。これはギリシャ語ではmodion となっていて意味は、9リットルより少しだけ少ない計量器を意味します。穀物を量るために台所に置かれているのです。中にある穀物を全部出して、あかりの上にそれをかぶせるべきではなく、それは全く意味の無い行為で、あかりを消してしまうことになります。

あなたはそれをベッドの下に置くべきではありません。ユダヤの典型的なベッドは、わらを巻き上げて、部屋の角に差し込んでいまして、ですからここで言われているものではありません。しかし、ローマスタイルのベッドは床より高くあげられたものです。あなたはベッドの下にあかりを置かないし、枡の下にも置かないし、それは明らかに愚かなことです。

それらは馬鹿げた考え方です。あなたがあかりを持っていたとして、そのあかりを輝かせようとしていて、それが意味するのはあなたがどこかからそのあかりを与えられたことをも意味していて、あなたはあかりを輝かせる必要があり、あなたはそれを燭台の上に置く必要があったのです。弟子たちと使徒たちはそれが意味するのは、旧約聖書にある神の真理を意味していることを知っていました。詩編119:105では「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」その他にも旧約聖書で同様に引用できる箇所があります。あかりを受け取ることの本来の意味は、それを輝かせることであり、与えられた真理の種をあなたの人生に植え、種が成長していき、種をまた収穫し、遠くへ、より広くばらまいていくのです。言い換えるなら、あなたは福音の光を輝かせる義務があるのです。

私たちは新約聖書が示す多くのことからこのことについて考えることができ、特に第二コリントでパウロは次のように言っています。「『光がやみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。」(第二コリント4:6-7)神の真理を受け取ることは、神の真理を反射させることです。このようなことは偉大な働きの前の働きと言えます。偉大な働きはまだ来ていなくて、それは復活の後にしか来ません。ルカ24章はこの偉大な働きについて記録された2番目に最もよく知られた箇所であり、マタイ28章は最もよく知られた箇所です。この偉大な召しは、使徒1章において完全に示され、主は、弟子たちに聖霊の力を受けて、エルサレム、ユダヤ全土、サマリヤそして地の果てにまで出て行き、福音を宣べ伝えるように言われました。しかしこれは偉大な働きの前の働きと言え、そして主イエスが言われたことはとてもとても重要なことです。

思い出していただきたいのは、山上の説教で主が示されたのは、私たちがこの道を行くべきであることです。主は次のように言われました。「このように、あなたがたの光を人々の間で輝かせ、人々があなたがたの正しい行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)ですから主が示されているのは、あなたがたは光を受け取り、それは、あなたが他の人に対してその光を輝かすことのできるためなのです。

しかしそれを邪魔するものがいくらかあります。これらの後に主のガリラヤにおける働きが始まり、主イエスはどこにおいても福音を宣べ伝えられ、弟子たちは主についていき、そして主の語られることを聞き、信じ、まさにこの人たちが真の弟子であり使徒達でした。しかし、非常に興味深い流れが起こります。

マルコの福音書をご覧いただいているなら分かると思いますが、主イエスはもはやこれまでのようにはなさりません。マルコ4:11に戻ってみると、主イエスは弟子と使徒たちに次のように言われます。「あなたがたには神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」恵みは過ぎ去ったのです。彼らは赦しから過ぎ去ったのです。信じることから過ぎ去りました。ガリラヤでなされたすべての出来事、来る日も来る日も来る日も来る日も、なされたことに対し、ガリラヤの人々とガリラヤのリーダー達が取った態度、決断、評決は、主を拒むことであり、3:22では、「『彼はベルゼブルに取りつかれている』と言い、『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』」と言いました。そして主は彼らに「たとえ」で語られるようになりました。

彼らは最終的な彼ら自身の評決を下し、そしてイエスを拒みます。そしてここでは神の裁きの働きとして、主はさらなる真理を彼らから取り除かれるのです。弟子たちには、たとえについて説明をされます。群衆が集まっている時に、彼らに対してはたとえで話され、その説明をされることはありません。ガリラヤにおける主の働きの時点から、主は説明をされることはなく、それは彼らが下した最終的な決定のためであります。私たちの主の裁きは、主を拒んだガリラヤにいたこのユダヤ人の世代に対して光を与えないことであり、彼らの希望は過ぎ去ったのです。

弟子達と使徒達は次のように言うかもしれません、「ちょっとお待ちください。では何か新しいご計画があるのですか?私たちに真理を与えることは最終的なご計画であって、そしてその私たちのグループというのはとても小さいグループで、神の御国と言うにはほど遠いものに思えるのですが?それに、私たちは裁きが下るということを人々に伝えるべきではありませんか?」このような疑問に対する答えはおそらく、思い出して頂きたいのは、ヤコブとヨハネがある村に来たときに、その村はイエスとヤコブとヨハネを拒み、それでヤコブとヨハネは次のように言いました、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカ9:54)」、イエスはそれを否定し二人を戒められました。

では彼ら二人の心には何があったのでしょうか?彼らはこれまで彼ら自身が聞き、信じ、そのことによって神の御国に入ることのできる福音のメッセージをイエスが語られてきたのを見てきました。しかし、今、主は群衆が理解していないにも関わらず何も語らないので、彼らは自分たちのなすべき責任は何であるのかを知りたかったのです。裁きを呼び求め、すべてを隠したままにすべきでしょうか?それともメッセージを語るべきですか?ここで主は彼らに彼らのなすべきことを与えられます。弟子たちが言っているようなものではなく、あかりを輝かせることです。あかりは輝かすべきであり、枡の下に置くべきではなく、寝台の下におくべきでもありません。
彼らは実際の所その準備はできていませんでした、なぜなら彼らはまだ訓練を受けていなかったからです。福音を述べ伝えることを制限されました。思い出して頂きたいのは、悪魔にそれをしないように言われたことです。1:40~45において、主はある人を癒し、「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」その人は主に従うことはせず、言い広め、そのためにその町における働きをなすことができず、その町から出て行かざるを得なかったのです。はじめの数カ月はイエスはご自身を宣言されることを制限されていましたが、それにはいくつかの理由があります。使徒達と弟子達においても、彼らはまだ福音を語る準備が出来ていませんでした。語るべき時ではなかったのです。少なくともガリラヤにおいてはです。

しかし語ることが許されるまで、さほど時間がかかったわけではなく、6:7を見ると「また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、」とあります。主に対して最終的な決断をしていない人々がいました。それで、主は2人ずつ組みにして、汚れた霊を追い出す権威を与えて遣わしました。12節でそれが語られています。「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、」彼らは説教し、神の国を宣べ伝え、悔い改めを宣べ伝え、彼らのメッセージが神からのものであることを示し、悪霊を追い出し病の人々を癒すことで神の力を示しました。

ですから6章になり、彼らは最初の宣教団体を構成することになったのです。短期宣教と呼べるものです。彼らは出ていき、そして戻ってきます。最終的な任務ではありません。十字架と復活が来るまでは、彼らの最終的な務めはやって来ませんが、それはその時になってはじめて福音のメッセージが完成するからですよね? 彼らは出て行き神の国に入るための悔い改めを説きました。彼らはキリストがメシヤであることを宣べ伝えることができます。しかし、まだ十字架と復活については説くことができません。彼らはまだその準備が全くできていなかったのです。しかし主は彼らを出て行かせ、彼らがこれから経験するであろう人々の反応というものに慣れていく機会を与えられたのです。

ですからここでのポイントは、神のみこころはあかりを輝かせることであり、種が蒔かれることです。しばらくの間、最終的な決定を下したガリラヤの人達に裁きが与えられました。しかし数章の後には、ガリラヤの別の場所の別の人々の所へ行くことになります。しかし主が6:7~13において弟子達を遣わされる時に、彼らはその場所で彼らが拒絶されるだろうと考えたかもしれません。主はもし彼らが拒絶されたならば足のちりを払い落としてそこから出て行きなさいと言われました。しかしこの時は訓練のための働きであり、それは最終的な彼らの完全な働きのためのものでした。

このことは神のみこころにかなうものでした。22節を見ると次のちょっとしたたとえが出てきます。「隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。」シンプルな考え方です。人々が隠すのは、彼らが明らかにする必要があるその時があるからなのです。もしあなたに子供がいるなら、すぐにでもやらないといけないことがあります。知っての通り、あなたはクリスマスショッピングをして、すべて買ってきたクリスマスプレゼントをどこかに押し込み子供たちに見つからないようにしますよね? なぜならそれらが明らかにされるべき適切な時があり、それは今ではないからです。あなたの子供たちが賢ければ賢いほど、わんぱくであればあるほど、あなたは一生懸命考えて、良いアイデアをもってそれを隠さなければならなく、それはあなたが知っての通り、プレゼントは明らかにされるべき適切な時があるからです。

あかりを持ってくることができる時と、持ってくるべきではない時もあることを22節で言われていることから理解することができます。これらは自明の原理です。ここで一つの考えがあるのですが、あなたがもし価値あることを持っていたとして、それは知らなければならない真理であり、それらは明らかにされる時と場所があり、そのことを主は語っておられるのです。確かに今は隠されているのですが、明らかにされる必要があるときに、それがなされます。今は秘密にされていますが時が来ると全ての人々に明らかにされ、その時というのは、主の死と復活の後にもたらされる完全なものであり、弟子たちに託される偉大な働きによってなされています。

一時的に隠され、永遠に明らかにされます。これがここの大きなポイントです。ところで同じような箇所がマタイ10:26にあり、隠すその目的というのは明らかにされるのに完璧な時があるということを示しています。語られない理由は、語られるべき完璧な時があり、明らかにされるべき適切な時があるということです。別の言い方をしますと、世界的な宣教の働きはなされていくその日が来て、あなたが期待していることがやって来ると同時に、私たちは少しの試みを受けることになるのです。数カ月の間、遣わされます。主はいくらかその働きを拡大し始め、まだ完全な働きが示されてはいませんが、6章で彼らを遣わし、それは私たちにマタイ10章、ルカ9章で示されています。しかし十字架にかかられる前のことではありますが、この短期宣教と呼ばれる種類の働きについて、マルコが書いたことによって私たちは短期宣教について話すことができるのです。屋上でキリストの栄光を叫ぶときに、その日が来たことになるでしょう。

ですから、神のみことばを聞くなら、そのメッセージを世に伝える責任をも負うことになります。従順に聞く必要があります。もしあなたが種を持っているなら蒔く必要があり、あかりを持っているなら輝かせる必要があるのです。そうですよね?それは種が持つ本来の目的であり、あかりもそうです。あかりは輝かせるためにあり、隠すためではありません。種は蒔かれるためにあり、保管しておくためではありません。私たちは従順な態度で聞くべきです。

2.正しく認識して聞く

2番目に、私たちは正しく認識して聞く必要があります。私たちは従順に聞く必要がありますが、それは本来のあるべき態度であり、種、あかりを持っている者の本来の責務です。私たちは感謝を持って聞く必要がありますが、それは目に見えない機会がそこには備えられているからなのです。24、25節を見ていきますが、すでに23節は見てきました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」このフレーズは新約聖書では8回も繰り返されています。そして私たちが見ていくのは、「聞いていることによく注意しなさい。」です。24節の後半では正しく認識して聞くことについて学んでいくことができます。

「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」主はここでも農業に関する話し方をしているがわかりますかますよね?これはすべて神の御国に関する理解のことであり、農業的な見方で話しておられます。思い出して頂きたいのは、私が13節でお伝えした、「このたとえが分からないのですか?」の箇所にある土のたとえです。彼らは理解することができませんでした。それで主は「このたとえが分からないのですか?そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」

これとは反対に、主ははじめのたとえを説明されていて、すべてが明らかにされました。そして地のたとえでは具体的な例を示して、たとえが明らかにされました。21節での主がシンプルなたとえの説明をされませんでした。22節でも説明されません。26~29節も、30~32節も説明されませんが、それはそれらが説明する必要のないものだからです。地のたとえについて理解を得たなら、その他すべては理解できるようになります。しかし気を付けて頂きたいのは、種蒔き、刈り取りのイメージといったもの繰り返しされていることで、「あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。」これは、神が、あなたが蒔いたものを刈り取るようにされるということですよね? ここがポイントです。ガラテヤ6:7で、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。(第二コリント9:6)」これは基本的原理です。すべての人が理解できる自明の原理です。主の約束は、あなたが蒔くその種を祝福してくださることです。主は、あなたに祝福を戻して下さいます。それはあなたが蒔く種のすべてが救いをもたらすものであるという意味ではなく、しかし、忠実にあなたが種を蒔くとき、神は忠実に、その報いをお与えになるということです。そしてその報いというのは、あなたが蒔いたものと等しいものではなく、24節が言うのは「さらにその上に増し加えられます。」そして25節の初めの方で、「持っている人は、さらに与えられ」るのです。

もしあなたがその持っている人の一人であるなら、それは永遠のいのちを持っていることであり、真理を持ち、種を持ち、あなたはあなたが量っているその量り以上のものを受け取ることになるのです。これはルカ6:38でイエスが言われていることで、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」それは人生においては人々からやって来て、未来、そして永遠において、霊的な祝福が神からやって来るのです。

ですから私がお伝えしているのは、従順に、正しく認識して聞くことであり、他者にその聞いたことを知らせる忠実な者として、私たちに主が忠実にお与えになる報いの約束のためなのです。25節で持っている人はさらに与えられるとあります。2回繰り返されていて、はじめは24節で、そしてもう一回は25節です。マタイ13章は平行記事となっていて、12節で「さらに与えられて豊かになり」と書かれています。

何が豊かになるのですか?神の祝福です。あなたが真理を伝えていくなら、あなたはさらなる理解が与えられ、さらなる心理、さらなる恵み、さらなる力、さらなる喜び、さらなる満足、さらなる満たし、さらなる豊かな人生、そしてさらなる永遠の報いがあるのです。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)」受ける資格の無い者が与えられる、無限の約束です。

これと対比して25節では、持たない者について言われていて、この人々というのは、(教会に)うろつきまわっているのですが、本当の信仰者ではなく、持っているものもそうではなく、もしくは平行記事のルカ8:18の言葉を借りるなら、持っていると思っているもの、です。理解するにはこちらの表現が良いですね。持たない人達は、持っていると考えているものさえもその人から取り去られるのです。間違った教えは、信仰者に近づいてくる人々を騙します。第一コリント7章では、生まれ変わっていない夫は、信者である妻によって聖められると言っています。飛び散っていくような影響を彼に与えるのです。神が祝福を信者である妻に注ぐと、彼女の夫にも同時にその祝福が飛び散っていくのです。もしくは、飛び散るような祝福は、たとえば次のようにやってきまして、信者でないユダヤ人が信者であるユダヤ人と教会の中に一緒にいて、そこに書かれたへブル人への手紙に次のように書かれています。「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。(へブル6:4~6)」これらの人々は、マタイ7:21で書かれている「主よ、主よ、これもしました、あれもしました」と言っている人たちで、主は「わたしはあなたがたを全然知らない。・・・わたしから離れて行け。」と言われます。

自分では持っていると思っているが、持ってはいない人達は、彼らが持っていると考えているものが何であるかをやがて気付き、そしてそれをも失います。真実にキリストにつき従っていく者たちは、一方で、祝福の上に祝福があり、さらにその上に祝福があり、さらにその上にとったように祝福が彼らの上に注がれ、彼らが行った福音伝道の働きに自らを捧げた、その幾倍もの祝福を受けます。

ですから私たちは種を蒔き、あかりを輝かせ、それらを従順に行うのはそうすることが本来の目的だからであり、正しく認識してそれを行うのは、個人に与えられた恵みの機会だからです。我々一人一人は私たちの信仰の上に立ち、神からの祝福を個人的に受け、それは私たちの価値を大きく大きく、はるかに上回るものです。

3.(完全な神の力に)依存して聞く

私たちは従順に聞き、正しく認識して聞き、そして3番目に、(完全な神の力に)依存して聞くべきです。依存的にです。この偉大なる福音伝道の働きにおいて、私たちは神のみことばを聞き、受け取り、宣言し、そして私たちは私たちの限界について理解しなければなりません。

では私たちは、このセクションにおいて最後の2つのたとえにやって来ていまして、はじめに「また彼らに言われた。」という表現はされていなくて、26節では「また言われた。」となっています。お気づきかと思いますが「彼らに」がありません。30節でも「また言われた。」となっています。ですからこれらのたとえは、群衆に話されているようです。これらのたとえは群衆に説明がなされていません。おそらく弟子たちには説明がなされていてもよかったと思いますが、なされていません。それは、本当に必要のないものだからです。弟子たちは、何の話がなされているのか理解していたのです。彼らはその思いの中に、具体的な例示を持っていたので(主がなされた前のたとえに関する説明)それがこれらのたとえに関する理解を明らかなものにしていたのです。
ですから、主は26節で「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

ところで、この中に終末についての言及がありません。これはイエスが終末の裁きの時にに来られることについて語られているのではありません。なぜかと言いますと、このたとえは終末のために用いられたのではなく、その時まで農夫は眠っていますし、裁きのためイエスが来られる時、イエスは長い眠りからさめるわけではないからです。このたとえば終末のことを指してはいません。単純なことで、シンプルなたとえであり、意味をはきちがえてはいけません。

農夫は植え、眠り、土を整え、水を与え、といったことをやりますが、収穫の時が来るまで待つしかありません。穀物が育つために、何の役割も果たすことができませんが、ここがポイントです。救いの領域は、神の支配される心の領域であり、信じる人のために私たちがなす役割というのは、この農夫のようなもので、種を植え家に帰ってベッドに入るだけです。私はこれが好きです、本当にこの役割が好きです。あなたはあなたの人生においてパニックになる必要はありません。あなたは24時間起きている必要はないのです。ベッドに行きましょう。種を植え、光を輝かせ、そしてベッドに行きます。どのようなことが起こるかについては、あなたに責任はありません。これらすべては不思議なみわざです。

このことは強い逆説的な意味があります。種は地の中に行き、そして死に、命が出てきます。どのようにしてこのことは起こっているのでしょうか?だれも知りません。農夫は分からないのです。農夫がそれを引き起こすことはできないのです。だれもできません。世界で最も優れた園芸家でも、どのようにそれが起こっているのかわかりません。彼らはそれが起こっていることは分かりますが、それがどのように起こっているのか定義することはできないのです。命として出てきたのは、元々死んでいた種で、やがて巨大な穀物となり、それは福音の隠された不思議であって、福音のシンプルな真理は命の力であり、私たちが寝ている間に起こることなのです。

私のできることは真実を語ることだけです。私のできるすべては真理を話すことです。その結果についてどうにかすることは私にはできません。命を与えることは私にはできません。これは神の不思議であり、私たちは農夫のような者です。人間にできることは種を植え、そして待ち、そして眠り、働きはすべて神のなされるものです。第一コリント3章6節では「成長させたのは神です。」とあり、命と成長は神のわざなのです。あなたは天から(御霊によって)生まれなければならない、とヨハネ3章にあります。人の意志によるものではなく、肉の意志によるのでもなく、ヨハネ1:13では、「ただ、神によって」とあります。このことを良く聞いて下さい、新しく生まれる、生まれ変わる、義とされる、救いのプロセスに人間は何も貢献していません。私たちのできるすべてのことは、真理を語ることだけです。その種は力があり、福音の内には神の力があり、ローマ1章で書かれているのは、神によって備えられた地は、種を受け取り、神が成長させてくださるのであり、私はこのたとえの箇所を愛していますが、成長し始めると収穫のときまでそれは決して成長をやめることはありません。はじめは葉、次は花、それからよく実った穀物が穂先にできて収穫します。神のはじめられることは、完璧ですよね?そう思いますよね?ピリピ1:6に次のようにあります「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来る日までにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」

これは重要なレッスンでありますが、ところで、福音伝道を操作しようとする人たちや、賢いビジネスマーケッター達、彼らは人々を信じさせることができると考えます。どんなに説得力があり、どんなに賢くても、人間は新しく生まれること、生まれ変わること、義とされることに関してどのような貢献もできません。私たちができることは、真理を与えることだけです。私たちは人の心を変えることはできませんし、死んでいる人々に命を与えることもできません。このようなことはただ主だけがされることです。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(And once He begins to draw him, then it’s the blade, then it’s the ear, then it’s the full grain.)現代の嘘によってそそのかされているすべてクリスチャンの頭と心の中にこの事を叩きこむ必要があり、たとえ福音のマーケティングが上手でなかろうと、私たちはもっと確信を得ることができるし、人々を救いの確信を得させることができます。それはただ真理を語ることなのです。

言いたくはないのですが、このことに関して音楽はなんの役にも立ちません。音楽の中で言われていたり歌われていたりする内容は、おそらく福音に関すること、福音を届けることでしょう。しかしムード(雰囲気)であったり、音楽そのものであったり、招きであったり、人間の努力であったりそのようなもの(が、フォーカスされるべき)ではありません。私たちは神の働きを人間の手段(方法)によってなすべきではありません。

私は28節を愛していますが「地は人手によらず実をならせるもので」とあります。このギリシャ語はautomate とあり、それは英語のautomaticallyの語源となっているものです。神の自動化(オートマチック)です。勇気づけられませんか?新しく生まれる、変えられていく、霊的な移動、変化、新しい誕生、これらは誰かによってもたらされるのではなく、人間の手段によるものでもなく、すべてのプロセスが神の自動化によるものなのです。あなたが始めることもできないし、止めることもできません。あなたができることは、そこにいて収穫を楽しみ、第二テモテ2:6にあるように、労苦した農夫は、その収穫を楽しむことができるのです。救いに関して私たちは何の役割も果たせません。しかし、私たちは収穫にあずかるのです。

では収穫とは何を意味するでしょうか? 一つの言い方をするなら、私たちは交わりを楽しんでいますよね?収穫とは交わりのことなのです。別の言い方をするなら、私たちはそこでそのとき会えるのすら知ることができない、永遠の未来における友人のことなのです。永遠に私たちは収穫を楽しむのです。私たちは収穫を味わうでしょう。

福音が届けられるために、私たち自身の心を変えていく自分の力には依存していなくて、福音をより受け入れられ易くする能力にも依存していなく、もしくは、人の思いを操作したり、感情を操作する能力にも依存しません。私たちはまさにこの点について話をしています。救いの働きはただ、自動化された神の働きであるのです。ですから私たちは(完全な神の力に対して)依存的に聞かないといけません。そうですよね?依存的にです。もしくは、謙虚に、という表現をあなたは好むかもしれません。

4.確信をもって聞く

では最後に、もう一つのたとえがありますが、私たちは確信をもって聞く必要があります。確信です。知っての通りこの弟子たちは彼ら自身のことを次のように考えていました。「わかりました。私たちはあなたと共にここまできました。従順に、正しく認識し、そして神の力に依存し、謙虚に。しかし最終的にどのようになるのでしょうか?どこへ行くのでしょうか?(私たちのグループは)とても小さく、壊れやすく、弱いです。私たちは一体どうなるのでしょうか?」

主は私たちに確信を持って聞くように思い起こさせておられ、なぜなら避けることのできない外からやってくる出来事があるからです。30節で主は「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。」最終的なものを見ていくなら、それはどのようなものでしょうか?最終的な結果はどのようなものでしょうか?この弟子たちと使徒たちはガリラヤにおいてこの点について、もがいていました。彼らはどのように理解すべきなのか、そのことに直面していました。この先の未来で起こることをどのように思い描けばよいのでしょうか?とても弱く、とても小さい(グループ)のです。

主はシンプルなたとえを与えておられます。「それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」すべての人がこのことを理解するでしょう。神の国はからし種のようで、からしの木のように変わっていきます。

彼らが農業で使用していたからし種は、最も小さい種です。実際のところこの地球上でもっとも小さい種ではないのですが、しかし小さいものを表現する際に最もよく知られ用いられるものが「からし種」でした。マタイ17:20でイエスは次のように言われます。「もし、からし種ほどの信仰があったら、」ですから、それはとても小さい何かを例示的に用いる表現として用いられ、それは砂粒くらいの大きさでした。しかし植える際の大きさに比べて、これほど大きくなる植物はありません。からしの木は、15フィート(4.572m)の高さまで成長し、直径は6フィート(1.8288m)までになり、砂粒ほどの大きさから巨大な植物になります。私たちの主が言われていることは明らかで、ここでは説明がありません。小さく始まり、いいですか、あなたにその後どうなっていくか示されることはありません。この小さい種がどれほどの量で増え広がっていくのか、高さ15フィート、直径6フィートの中にどれくらい含まれているのか数えるのは無駄なことです。どのくらいの小さな砂粒があるのでしょうか?

それらは幾万もの数であり、それに比例して目もくらむような数になっていき、ですから私たちは神のことばを従順に聞き、正しく認識して聞き、謙遜になって聞き、いいですか皆さん、私たちは確信を持って聞くのです。私たちが見ているものを、彼ら(弟子たち)は見なかったのです。私たちは神の国が広がっているのを見ていますよね?私たちはそれ(福音)が世界の果てまで届いていることを見ています。それは素晴らしいことです。彼ら(弟子たち)にあるすべてのことはとても小さく、顕微鏡で見ているようなものでした。それは一体どこに向かって行くのでしょうか?そして彼らはイスラエルのリーダー達や人々のほとんどがイエスを拒絶したことを知っていて、それは本当に希望のないことでした。彼らはもしイエスが「出て行って裁きを宣言してきなさい。」と言われたらよほど心地よいものだったでしょう。しかし、私たちが言われていることは、そのようなことはすべきではなく、私たちはあかりを輝かすべきで、そして種を蒔き、それが私たちに与えられた召しであり、託された務めなのです。その結果は本当にどうなっていくのでしょうか?主は言われます。それは巨大なものとなり、始まりの大きさからするととんでもない大きさになるのです。これは勝利する成長の預言であり、福音の成長は世界の歴史を通して成長していき、究極的にその最高潮は、千年王国でのキリストによる全世界の支配です。

鳥たちがその陰(からしの木)に巣を作るという箇所に気を付けて下さい。これはエゼキエル17章で用いられていて、そこではメシヤに関する預言を見ることができ、次のように言っています。「メシヤの支配のもとに、国々は来て、救いを見る。」国々のことは、鳥たちが祝福された木にある巣に来る、といった表現でなされています。ですからこのイメージで用いられているのです。鳥たちは国々を表しています。別の言い方をするなら、神の国はイスラエルだけ広がっていくのではなく、世界の国々に広がっていくことを示しているのです。ダニエル書4:10と21でとてもよく似た使い方をされている箇所を見ることができ、ネブカデネザルが見た彼の国に関する幻は、鳥たちが彼の木にいて、人々と国々が彼の支配の下にいることを示しているのです。

とんでもないことです。世界の国々はその中に入れられることが言われているのです。黙示録を見るなら天の神の御座の前に、すべての言語、国の人々が集められることが書かれているのを見ることができます。ほんとうに、驚くべきことであり、途方もないことです。

ですから私たちは聞く者です。理解をもって聞きます。私たちには特権が与えられています。33、34節で、このセクションは終わっています。多くのたとえのことばをもって主は彼らに話され、主はこの機会をマタイ13章で書かれているガリラヤの地で与えられました。主が語られたことばは、彼らが聞くことができるには、ほど遠いものであり、それは群衆のことです。主はたとえ無しには語ることはなさらず、しかし弟子たちには彼らにだけすべてを説明されました。こうして、私たちが始めた地点に戻っていくのです。

クリスチャンに与えられた特権は何ですか?真理を知ることですよね?クリスチャンを区別する印は何ですか?真理を知っていること、真理に従っていること、真理を愛していること、聞く者であること、です。そして、どのように聞くのでしょうか?従順に、正しく認識して、そして神の力に依存した聞き方、謙遜な聞き方をし、そして確信を持って聞きます。驚くべき特権を私たちは、見ることができましたよね?

このような考え方をしましょう。もしあなたが信仰者であるなら、あなたは神のことばを理解しています。主が語られるとき、あなたは完全にそれを理解します。それは他のみんなが話しているようなが外国の言葉のようではありません。

 

 

※ ジョン・マッカーサー師のメッセージを翻訳したのですが、私の英語力では非常に難しい点が多々あります。実際の表現とは違う間違っている箇所はあるかと思いますが、どうぞご容赦下さい。

 

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