サタンという存在

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暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。
イザヤ14:12-15

神の敵であるサタンについて考えていきます。どのような存在なのか、聖書で一体どのように書かれているのか。まずこのイザヤの箇所がありますが、サタンの大きな特徴として挙げられる大きく3つのポイントを今日は見ていきます。

自分を高くしたい

『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう。』と、心の中でここで言う暁の子、明けの明星は、そのように言いました。よく聞くルシフェルという訳は英語のバージョンではKJVなどで使われますが、その他のNASB、ESVでは使われていません。一般的に呼ばれているルシフェルが正しい呼び名かどうかは今後さらに調べて吟味していく必要があります。

天に上る、神の星々のはるか上、北の果てにある会合の山、密雲の頂き、そして、いと高き方。これらが指すのはすべて「高い」ということです。高い場所というのは、見晴らしがよく大変気持ちの良いものです。しかし、高く上がりたい気持ちが一体どこから来ているのかということです。何も高い場所がすべて悪いというわけではなく、恵みによって高くあげられているなら、それは感謝なことですが、もし単に自分の思いであり、神の御心をそこなう、むしろ神の戒め、神の警告、神の教えよりも、高く上がることを優先してしまうならどうでしょうか?

創世記11:1~4にシヌアルの地、すなわちバベルの地における塔について書かれています。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂きが天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」
頂きが天に届く塔、名をあげる、散らされたくない、それらはすべて自分の栄光を求めるものであり、自分達のためであり、神の栄光や、従順とか、敬虔、信仰とはまったくかけ離れたものです。

パウロは第二コリント10:4~6で高ぶりについて言及しています。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
」私たちが戦っているのは、この要塞であり、思弁であり、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり、なのです。そしてこの高ぶりこそまさにサタンの最大の特徴を表すものなのです。

サタンは心の中で言ったのです。「いと高き方のようになろう」発音したわけではなく、何か行動したのでもなく、心の中で言っただけす。このことをあなたはどう思いますか?私たちの心はどうなんでしょうか?神の御前ですべてが明らかで、サタンはこのことによって地に投げ落とされ、よみに投げ落とされ、そして火の池に投げ落とされることになります。神の命令よりも自分の思いが優先することはないですか?神の戒め、命令、みことば、権威よりも自分の思いが優先する、このことはサタンのやっている事と全く同じことです。このことを考えていくと、私たちがいかに恐ろしい罪びとであり、サタンのような性質を内に外に持つ者であることは明白です。罪に完全に汚染されていることを認識する必要があります。

誘惑に騙されることは、それは誘惑をもたらすサタンが悪いと考えるのは間違いで、命令よりも自分の思いを優先したいサタンと全く同じことを自分自身がしていることになります。アダムとエバもまさにサタンに騙されたというより、サタンに同調したといった方がいいかもしれません。創世記3:6「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」エバだけでなく、アダムも全く同じことをしました。

肉の弱さとも言えますが、あるいは、サタンの性質とも言えます。悪魔の子なんて言い方もイエス様はしています。パウロはどう言っているでしょうか。ローマ7:14~25「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなく       25節まで」

要するに人間はどうしようもない、ということです。この地上にいる限り、肉のからだにある限り、常に、ずっとずっと罪がつきまとうわけです。神に逆らい続けるのです。従いたいという願いはあるけれども、罪を犯す、どうしようもないみじめな存在であり、どうしようもない高慢な、高ぶった、サタンの性質を持った者なのです。サタンはこのように人間に罪を犯させ、日々神の御前に訴えたくて仕方がありません、それは、あなたをであり、そして私もです。サタンは、たった今の瞬間にも、神の平和と、恵み、祝福がこの地に満ちることは絶対に阻止したいと考えています。神に支配が完成することは全く望んでいません。神のみことばがまっすぐに語られることも決して望んでいません。人間が自分と同じように神に対して逆らい、みことばに対して従順ではなく、非常に高ぶった状態であるように、切に、切にそれだけを願っているのです。

神を知っている

もう一つ大きなサタンの特徴をあげるとしたら、神をよく知っていることです。マルコ1:23-24「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』」ある意味、人間よりよく知っているかのような所さえあります。元々大きな力を与えられていたように、イザヤ14章ではあるので、神からの多くを任されていたということは、神がどのようなお方であるかということも知っていたはずなのです。そして、この悪霊は本当によく知っていて、しかも神がどのような計画を持っておられるのかを知っていて、それはサタンを滅ぼすということです。この悪霊はまさに身震いしていたのでしょう。

ヤコブ2:18~19「さらにこう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」悪霊どもは、神はお一人だと信じているが、それでもなお逆らい、従うことを拒んでいるということです。そして、それに同調する、全く同じことをしているのが人間であり、それが罪です。人間はいかに恐ろしく、巨大な罪を犯しているのか考えてみましょう。罪の恐ろしさ、忌まわしさはいかほどのものでしょうか。

ヨブ1:6~11では非常に興味深い神とサタンとのやりとりの様子が書かれています。「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』主はサタンに仰せられた。『おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。』サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろううに違いありません。』」サタンはヨブを罪に定めたくて仕方がないようすが伝わってきます。またここでは明らかな上下関係が存在していて、サタンは神の御前にしもべのような物言いをしていることもわかります。サタンは神がどのようなお方であるか本当によく知っているはずです。

イエスの話を聞いて信じたユダヤ人が何をしたか、ヨハネ8:23-59に書かれていますが、何をしたと思いますか?(ヨハネ8:23-59を読む)イエスは「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」と言われたイエスをまさにこの信じたと書かれているユダヤ人たちがイエスを殺そうとしました。信じている、と従順に従ってついて行く、とは全然違うことがわかります。ただおひとりの神であると知っていても、なんの役にも立たないどころかそのような知識があるにも関わらず、神の敵になり得ることも分かります。まさにサタンがそうでした。偽りの父です。

試みる者

3番目に挙げ られるのは、「試みる者」です。マタイ4:1~11でサタンによって試みられる主イエスのことが書かれています。7節では「あなたの主を試みてはならない」とも書かれていますが、では、この「試みる」とはどのような意味でしょうか。

こころ・みる【試みる】
1 実際に効力・効果などをためすために行う。ためしにやってみる。「実験を―・みる」「抵抗を―・みる」
2 試飲・試食をする。
[用法]こころみる・ためす――「機械がうまく動くかどうかもう一度試みる(試す)」など、とにかくやってみるの意では相通じて用いられる。◇「試みる」は、どんな結果になるかわからないが、とにかくやってみるという意が強い。「被災地と連絡を取ろうと試みたが駄目だった」などと使う。◇「試す」は「耐久性を試す」「恋人の心を試す」など、対象とするものの性能・実態を知るためにやってみるの意が強い。

どんな結果になるかわからないが、とにかくやってみる、対象とするものの性能・実態を知るためにやってみる、そのようなことを神である主に対してなしてはならないし、それを神に対して、また人に対して試みるのがサタンです。私たちはどのような実態であるのか、試されているのです。

サタンの試み1.パンになるように命じなさい

ここでサタンが主イエスに対してどのようなことを試したのか、見ていくと、まず、完全な人となられたイエス様は、空腹を覚えられました。それは肉を持つ私たちが40日40夜断食して、なお生きていると仮定するならばその時に感じている苦しみ、肉体を持つ者が受ける苦しみは同じであり、同じ程度の苦しみを味わっておられる、ということです。全く私たちと同じ体、肉体を持っておられたのです。なんとも不思議なことじゃないですか?そのイエス様に対してサタンは、もっとも大きな誘惑である、「食べ物」を提案してきました。ここで興味深いのは、なぜサタンはそのまま「パン」を持ってきて、目の前に出さないで、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」と言われたのでしょうか?

マッカーサー先生が、大変興味深いことを教えてくれました。「イエス様はご自身のために一度たりとも奇跡をなさらなかった。」のです。まさにこのような苦しみ、大きな大きな誘惑の時であろうと、私たちの主イエスは自分のことではなく、神が最も望んでおられるのは、何か、何が神の御心であり完全であるかを知っておられたのです。ローマ12:1~2には私たちに神のみこころを知ることをパウロが強くすすめています。私たちの考えでは、空腹であられるイエス様が、ご自身のために石にパンになるように命じることは悪いことではないのではないか、と考えてしまいがちです。

この申し出が一体だれから出たのか、ここでの大きな問題の一つでだと思いますが、全く同じことをもし弟子が言っていたら主イエスはどのように答えたとあなたは思いますか?それでも主は同じことを言われるかもしれません。

「人はパンだけでは生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」これがイエス様の答えでした。申命記8:3の箇所です。そこでは「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 ~ 20節まで」

イエス様はすべてを知っておられます。聖書に書かれていることはすべて主から出たものです。そして悪魔の試みに合われた時、この申命記8:3を言われました。私たちが神のみことばを暗唱する理由を見ることができます。もしうちにみことばが蓄えられているなら、どのようなサタンの試みであろうとそれに対する神のみこころを、聖書のみことばからはっきりと突きつけることができるのです。私たちの信仰はこのみことばにかかっています。

人が目に見える形あるものだけに囚われて生きるのではなく、神のみことばによって生かされるのだということを主ははっきりと示されました。しかも大きな苦しみにある状態の時に、です。目に見えない神を恐れるのではなく、目に見える物に心が奪われるように仕向けるのは、サタンの常套手段です。

サタンの試み2.聖書のみことばさえ引用する

次にサタンがしたことは、なんと、こともあろうにみことばを引用してきます。
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」詩編91:10~13を見てみましょう。「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみもあなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。」

今度はサタンはみことばから、ある提案をしてきます。それは神殿の頂きから飛び降りるという提案です。その場所がどこかというのは正確な位置はわからないのですが、マッカーサー先生によればThe Kidron Valleyという場所がそうではないかと言われているそうです。ヘロデが建てた壮大な神殿があるようです。インターネットで確認できます。そこのあるポイントではおよそ450フィート、137mもあり、とんでもない高さです。目もくらむような高さです。

4節で神のみことばを引用したイエス様に対して、「あなたは神を信頼しているんでしょ? なら、あなたはここからジャンプしてみなさい。」でした。

これはみことばの解釈の問題と言えます。ここはまさに、現代の教会が極端な解釈をしてしまう手法が、まさにサタンのやってきたことであり、真理のみことばを偽りと取り替えた瞬間でした。あなたは、神のみことばであると主張するサタンに対してなんと答えますか?ここでは主イエスがその答えを示してくださっていますが、あらゆる人生の局面において持ち込まれるサタンの偽り、時には聖書のみことばを引用しての偽りがやってきたときに、あなたも主とおなじようにあらゆる偽りを退ける準備はできていますか?サタンは神をよく知っていることは前回学びました。聖書に何が書かれているのか、サタンは知り尽くしているのです。そしてよく知っていない者をたぶらかして、騙してしまうのは簡単なことかもしれません。

「イエスは言われた。『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」でした。申命記6:16です。「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」マサで一体どのように神を試みたのでしょうか?出エジプト17:1~7に書かれています。サタンは人間と神とを試みていますが、同様にイスラエルも神を試みたのです。そしてこの試みることがいかに重大な罪であるかを示しているのが申命記6:16であり、まさに主イエスが示された箇所でした。これは神への恐れがない、これもまた非常に高ぶった心の状態が表れています。

サタンの試み3.私を拝むなら…

マタイ4:8~11
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いが近づいて来て仕えた。

この箇所を今日は見ていきますが、この時のサタンの試みとしては最後のものになります。最後にサタンが言ってきたことは、「私を拝みなさい」でした。神に対して、私を拝めと言ったのです。そしてそれに引き換えで提案したのは、この世のすべてでした。

ルカ4:6の平行記事を見てみると、サタンの言ったことが別の表現がされています。

「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」

あなたはこのことについてどう思いますか?サタンが「これと思う人」って一体どういう人でしょうか?サタンにとって最も都合の良い人物、いわばサタンにとって最も良い「働き人」になり得る人物とはどんな人なのでしょうか?そして、なぜサタンにこの世界のことが「任されている」のでしょうか?ヨハネも第一ヨハネ5:8~9で次のように言っています。

「神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」

この世の栄華、国々の一切の権力と、栄光、すべてを手に入れるチャンスが訪れたらあなたはどうしますか?そんなチャンスはさほどないですよね。最大の富を手に入れることのできる機会が目の前にやって来た時、私たちはどのような選択をするでしょうか?あなたはどうしますか?私たちの信仰生活においても、このような事の大きさは違えど、常に似たようなチャレンジを目の前にすることになると思いませんか?日々の生活においてです。自分の目の前にある大きな機会、チャンスと、神のみことばに書かれている神の御心と、その2つがあります。

なぜサタンはこの世界を任されているのでしょうか?なぜ神に背いていながら、そのような大きな力を持っているのでしょうか?

ヨハネは「世全体は悪い者の支配下にある」と言っています。どうしてですか?なぜこの世界は悪い者に支配されているのでしょうか?私たちはそのことに関して深く知る必要がありますし、そしてそれを十分に理解することによって神の与える賜物である「救い」について。より理解が与えられます。

ローマ7:14を見てみましょう。

「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」

「売られて」そして「罪の下」にあるのです。売られた者は奴隷です。そして買った人は主人であり、買われた人は奴隷であり奴隷は主人の下にいて、そして仕えています。ここでは「罪に下にある者」だとパウロは自分のことを言っています。いや、人類はそのような者であると言っています。罪の下、罪の奴隷、罪が主人になっていると言い換える事ができます。人類を奴隷として買った存在は「罪」ということになります。

もう一度先ほどのヨハネの手紙第一5:19に戻ってみましょう。
「私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」 悪い者の支配下、罪の下、これらが示すものは表現は違えどすべて同じ、ある一つの存在のことをずっと言っていることは既に分かっていると思いますが、サタンのことです。

サタンが私たち人類を買い、そして支配し、私たち人類はサタンの奴隷なのです。「いや、そんなことはない。私は自由です。」とあなたがどんなに言ったとしても、あなたは決して罪の束縛、すなわちサタンの束縛から逃れることは決してできないですし、罪のもたらす結果である、最終的な「死」から逃れる術は、これまでの人類の歴史を振り返っても、ある一人を除いてはだれも自らそれを持ち得る人はいませんでした。そして神から離れた人間は、すでに霊的に死んでいる、いのちが無い状態です。

創世記3:6で最初の人アダムとエバが罪を犯す様子があります。サタンは訴える口実を得ました。この時アダムとエバはサタンの試みに会い、まんまとその偽りに騙されてしまいました。そして、創世記3:22~24には、いのちの木への道が閉ざされた様子が書かれています。売られて罪の奴隷になった瞬間です。

私たちが聞くべきことばは、神のみことばです。従うべきことばは、神のみことばです。第一ペテロ2:2でペテロは「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と言っています。

サタンの最後の試みに対してイエス様は次のように言われました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」 主を拝み、主にだけ仕える。これが私たちのすべてです。

申命記6:13の箇所を引用されているようです。「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。」また、出エジプト20:3~5でも、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

あのソロモンも、伝道者の書で次のような結論を出します。虚しい、神から離れた生き方をしてきたソロモンが出した結論です。

伝道者の書12:13~14「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

私たちが恐れなければならないのは、神だけです。私たちが従わなければならないのは、神のことばだけです。